本日はNew Year's Eve

30代OLが「書き手」になる夢を叶えるドキュメンタリー

桜の木の下で

「知恵つくもんだねぇ」

「ほんと物凄い速さで知恵つくもんだねぇ」

 

桜の木の下ではしゃぐ3〜4歳児を眺めながら

おばあちゃんふたりが呟いている。

一体、あの子達は何をしたんだろうか。

「成長したわね」は褒め言葉だけど、

「知恵つくもんだね」は、純粋な褒め言葉ではないような。

ーーあいつら、やりやがったな。

そんな、本音が滲んでいる気がする。

おばあちゃん達にとっては、

本来可愛くて仕方がないはずのちびっ子達。

無邪気にはしゃぎながら、あの子達はなにをしていたんだろうか。

 

「日本でいう結婚相談所みたいなもんらしいよ」

「あ、そう。じゃあちゃんとしたやつなの?」

別の60代くらいの女性ふたりが、

自転車を押しながら桜の木の下を歩いている。

「じゃあ、いかがわしいやつじゃないのね?」

「え?」

「いかがわしいやつじゃないのね?」

「え、いや、そうだと思うけど」

 

なんの会話だろう。

めっちゃ気になる。

でもふたりはゆっくりゆっくり歩いている。

後ろをずっとついてたら、不審者と間違われてしまう。

 後ろ髪をひかれながらふたりを追い越していく。

 

f:id:jasmin_333:20170410111509j:image

 

小雨混じりの満開の桜の木の下。

みんな全然桜と関係ない話ばっかりしてるなー。

 

そう思って、ふと考える。

ん?

そもそも、桜に似つかわしい、それっぽい会話ってなんだろう?

 

「桜、きれいだね」

「そうだね」

 

……あ、終わっちゃうね。

 

「あっちも咲いてるね」

「きれいだね」

 

……うん、終わっちゃうなぁ。

 

桜にまつわる話題なんて、二言三言で終わっちゃって、

四言目辺りからはもう、

会社の給湯室とか居酒屋とか井戸端とか、

そんなところと変わりない話題になるのかもしれない。

 

「外国人はね、お花見の文化に感動するらしいんだ」

今度は50代くらいの穏やかな夫婦が歩いてきた。

「お花を見ながら仲間達と楽しむってのが、

そもそも外国には無いらしいんだよ。

だから、感動するらしいんだ」

「へー、そうなんだ。

やっぱりいいもんだよね、お花見」

微笑み合いながら歩いていくふたり。

 

「ぼくは きのう アルバイトを くびになりました」

少し先にいる韓国人風の男性とヨーロッパ風の男性の会話が聞こえてきた。

「だから らいしゅう めんせつを うけます」

「それは たいへんですね」

ふたりは、小雨降る灰色の空を背景に、

桜の花を大きなカメラで撮影している。

彼らも今この瞬間、お花見の文化に感動しているだろうか。

アルバイトやいろんな場面で出合った嫌なことを全部水に流して、それでも日本の文化が好きだと思ってくれているだろうか。

 

「あ〜、よごれちゃったー!」

困ったような声を出しながら、小さな女の子が長靴で水たまりの中をジャンプしてる。

「あーあ、汚れちゃったじゃなくて、自分で汚したんでしょ?」

「えへへ〜」

楽しいだろうなぁ。

カッパ着て、長靴履いて。

普通の靴の日は絶対許されないのに、長靴の日だけは許される水たまりでのジャンプ。

 

「雨が降ってよかった」

ちょうど桜が満開の週末。

あいにくの天気だったけど、

あの子だけは雨を喜んでいたかもしれない。

 

「さぁ、明日からまたがんばりますか」

桜の花を眺めながら、飲んで食べて愚痴って笑って、元気を充電して日常に戻っていく。

 

娘達に預けられたヤンチャな孫も、

帰ってしまえばまた会いたくなる。

 

いくつになってもこどもはこども。

一人前の社会人になってくれたものの、

いつになったら結婚してくれるのか、

悩みは尽きない。

 

夢に見た外国での生活も、

住んでしまえば厳しい現実が待っている。

 

それでも。

「よし、またがんばるか」

そう思わせてくれる不思議な力が、桜にはある。

 

 花びらがすべて落ちるまで。

力強い緑の葉が生い茂り、

「また来年」と思わせてくれるその時まで、

桜は今日も誰かの笑顔を支えている。

 

f:id:jasmin_333:20170410111750j:image

【女子大生と32歳の会話】健康診断でのボキャブラ的ジェネレーションギャップ

ユニクロなんですけど、大丈夫ですか?」

 

健康診断の受付で、学生さんに何度もそう聞かれた。

ーーいや、メーカーとかどこでもいいけど。

そう思うのをぐっとこらえ、

「柄は入ってないですよね?」

「はい」

「じゃあ大丈夫ですよ」

というやりとりを繰り返し行う。

 

何百人と来る中で、

一発で「ハイ」と言ってくれた人はほぼいない。

だけど話を聞いてみるとほとんどの人の答えは「ハイ」で問題ないのだ。

 

ーーなんで、一回で「ハイ」って言ってくれないのかな。

 

そう思いながら考えていた時、ふと気が付いた。

 

は、もしかして?!

 

「中に無地のインナー着てますか?」

 

無地……むじ……ムジ……MUJI

 

「中にMUJI(無印良品)のインナー着てますか?」

ユニクロなんですけど大丈夫ですか?」

「柄は入ってないですよね?」
「はい」
「じゃあ大丈夫ですよ」

そうゆうことか。

学生さんは学生さんで、

ーーえ、無印(むじ)? 

なんでメーカー限定されてんの?

と思っていたのかもしれない。

 

あぁ、ジェネレーションギャップ。

いまや「むじ」は、

無地ではなく、無印良品なのね。

ボキャブラみたい!

って、それも今の学生さんには伝わらないか_| ̄|○

がっくしどよよーん

 

ちなみに

「中に無地のインナー着てますか?」

と聞くより

「中にヒートテック着てますか?」と聞く方が圧倒的に早い。

 

恐るべし、ユニクロ

もはや、国民的インナーは

ババシャツからヒートテックへと変わっているのね。

頭も心も体も年齢を重ねるのは避けられないけど、

アンテナだけは磨き続けなきゃー

誰もが異色であり、同時に無色である

「自分らしい」って、なんだろう。

「普通」って、なんだろう。

 

文章を書いていると時々悩むことがある。

他の誰でもない自分らしい文章を書きたい。

だけど何か奇抜なことを言うのではなく、

共感を抱いてもらえるような、

「自分のことだ」と思ってもらえるような、

そんなことばを探している。

 

はてさて、一体何を書いたらいいんだろう。

唯一の「わたし」だから書ける、無数の「あなた」に届くことば。

どうしたら書けるんだろうか。

 

誰もが異色であり、同時に無色である。

最近そんなことを強く感じるようになった。

 

本を読むこと、文章を書くこと。

読み書きに時間を割いて熱中していると、今まで見えなかった世界や気づかなかった自分の姿が見えてくる。

あー、読んで書くって面白い! 

発見がいっぱい! 

みーんな、やってみたらいい。

きっとみんな楽しいと思うから!

 

この時のわたしは、自分がみんなと同じ色だと疑いもなく思っている。

だけど、そんなことをずっと言ってると違和感や温度差を感じるようになる。

 

あれ? 

本を読む人って思ってるより少ないのかな。

書くのが嫌いな人っていっぱいいるな。

コツを覚えたら上手くなる人もいっぱいいるけど、

そんなの知りたくないって人も、いっぱいいるんだな。

 

否定されているわけではない。

だけど、なんだか周囲と色が違う。

自分だけが浮いているような気がしてくる。

 

何かを好きになればなるほど、

 強く思えば思うほど、熱くなればなるほど、

ふと周りとずれているような感覚になる。

 

自分はなんか違うのかな? 変なのかな?

 

なんだか不安になって、同じことが好きな人達の輪の中に入ってみる。

本が好きな人。書くことが好きな人。

探せばたくさんいる。

え、こんなに?! って、笑っちゃうくらいにたくさん。

すると、やっぱり話しが合う。

あぁ、自分だけじゃなかった。

こんなにも仲間がいる! 

共感できて、泣いたり笑ったり。

おんなじ色に囲まれるって、居心地がいい。

これがわたしなんだ。

ようやく見つけた! 

そう思えて安心してあたたかい気持ちなる。 

 

だけどそれでハッピーエンドかと言えばそんなことはない。 

嬉しさと同時に不安も募ってくる。

あれ? 同じ色に囲まれて嬉しいと思ったけど、

わたしただ埋もれてしまっただけじゃないかな。

わたしにしか出せない色が全然ない。

たくさんいる人達の中から、わたしを選んでもらえる。

そんな特別な色が全然ない。

このままじゃ、いないのと一緒。

「普通」じゃだめなんだ。

「普通」じゃ、つまらないんだ。

もっともっと自分にしか出せない色を持たなきゃ。

他人と違う色を出さなきゃ。

どうしたらいいんだろう。

 

「普通じゃない」と思えば心配になり、

「普通でしかない」と気付けば悲しくなる。

 

誰でもない「わたし」でいたいのに、

みんなと違う「誰か」になるのも怖い。

 

「自分らしい」って、なんだろう。
「普通」って、なんだろう。

 

どうしたら、自分らしさのまま、受け入れてもらえるんだろう。

 

その答えを探してた。

たったひとつの答えを。

 

だけど、ようやく気が付いた。

「誰もが異色であり、同時に無色である」

 

答えはひとつじゃない。

「自分らしさ」はひとつじゃない。

自分の色は、一色だけじゃない。

周囲が変われば、自分の色の見え方も変わる。

周囲が変わらなくても、自分の色が変わることもある。

 

だから。

どんな時でも、自分の色は美しいと信じる。

それを忘れちゃいけない。

信じることが出来れば、時にいつもの自分と違ったって、周囲と違ったって、

不安にならず楽しむことができる。

たとえ誰かに否定されたって、そんな時こそ信じることが大切だ。

 

せっかくキレイな色なのに、

周りに合わせて、無理やり嫌な色で塗り潰してしまったら、もったいない。

そうせざるを得ないなら環境を変えることも手かもしれない。

ただ相性が合わなかっただけ。

もしくはお互いに少しずつ色が変わっていっただけ。

一緒にいて居心地のいい場所、互いがより美しくいられる場所は必ずある。

 

だけど。

浮いてしまうのが苦しいなら、自分の色を意固地になって守る必要もない。

色を馴染ませて寄せていったって、本来の美しさは損なわれない。

むしろ彩りを合わせることでより美しくなれることもある。

混ぜることで、新しい色を作り出せるはずだ。

自分の色は美しいと信じているからこそできる、挑戦。

 

もしも、同じ色の中にいて居心地が良いなら、その場所を守ればいい。

崩れないように色褪せないように、丁寧に守り続ければいい。

それでも、その中でもひときわ輝く一色になりたいなら、それ相応の相当な努力が必要だ。

一点がキラッと光れば、周囲もそれに気付いて自分も輝こうと必死になる。

他が磨かれていく中で、何もせずに留まっていれば、

自分は変わっていないと思っていても、ただそれだけで濁って見えてしまう。

常に上へ、常により良く変わり続けなければならない世界もある。

 

他の誰でもない

自分だけの色を磨き続ける努力も忘れずに、

周囲と調和しながら日々を過ごす。

 

そんな生き方を日々貫くことが、今の時点の、わたし「らしさ」なのかもしれない。

 

異色であることを恐れず、

無色になることに臆病になる。

自分の色は美しいと信じ、

他人と比較して後ろ向きになるのではなく、

調和できる自由度を楽しむ。

 

いろんな人の声を聞き、

いろんなことを書きながら、

最近そんなことを、思っている。

 

誰もが異色であり、同時に無色である。

だから、どんな色も美しい。

そう信じれば、世界が変わらずとも周囲が変わらずとも、毎日はちょっとだけ楽しくなる。

もうすぐ冬が終わる。

あたらしい色に会いに行ってみよう。

今しかない、この季節だけの特別な色に。

そうすればきっと、わたしの色もどんどん濃くなり、透明度も増していく。

そうやってちょっとずつ、進化していきたい。

天才が天才たらしめる軌跡を映し出したドキュメンタリー〜25年の時を経て甦るため息

ーー痛い

 

彼女が口を開いた瞬間、胸の奥をギュッと掴まれた。

 

やわらかく力強い旋律を奏でる彼女の吐息。

スーッと、記憶の奥に入り込む。

 

この胸の痛みは、いつの痛みなんだろうか。

ギュッと掴まれて、一瞬チクっとして、

じわっと、あったかくなる。

 

これは現実ではない。

記憶だ。

頭ではわかっているのに。

心が、彼女の作り出す世界から抜け出そうとしない。

 

彼女が口を開く度。

そのメロディに胸が苦しくなる。

奥の奥に仕舞い込んだあの日の記憶を絞り出すかのように、キューッと、痛くなる。

 

あの日。

その指先に初めて触れた、あの日のことだろうか。

わざとゆっくり歩くわたしを、じっと待っていてくれた、あの日のことだろうか。

目の前にいるのに、後ろを向いてしまったその背中に触れることができなかった、あの日のことだろうか。

 

これは、記憶なのに。

気持ちじゃなくて、記憶なのに。

 

どうして彼女が口を開くだけで、こんなにも体が震える程に甦ってくるのだろう。

どうしてその吐息には、そんなにも命が宿っているのだろう。

 

エンドロールが流れ、ゆっくりと会場が明るくなる。

 

確かなことは、何も思い出せない。

ただ。

 

あの日。

 

その日は、確かにあった。

誰かを想った過去があった。

そのことだけを、全身が記憶していた。

 

ーー痛い

 

彼女の歌う『中央線』は、

あんなにもやさしく記憶を紡いでくれるのに。

現実の金曜の夜の中央線は、

ただの現実でしかない。

残業に疲れて眉間に皺を寄せる人と、

早くから酒を煽って臭気を放つ人達が、

居場所を確保するために、押し合っている。

 

それでも。

 

彼女の歌声は、そんな現実にも救いを与えてくれる。

 

過去にはあった。

記憶の中には、確かに残っていた。

胸が痛くなるほど、恋い焦がれた日。

どこまでも青い海の向こうを追いかけて、

きっとその向こうまで行けると信じた日。

ばかみたいに、前だけを見ていた日々。

 

ただ、彼がいて、私がいた。

 

流れてしまう時間を、

変わってしまう人の心を、

向き合いたくない残酷な現実を。

 

彼女はそっと拾い出し、旋律に閉じ込める。

やわらかな吐息で奏でるそのメロディは、

あの日があったことを思い出させてくれる。

 

ーー走り出せ、中央線

 

"ピアノが愛した女"矢野顕子が、

唇を噛み、拳に怒りを込め、天井を仰ぎ、

何度も繰り返し触れようとした、完璧な一瞬。

 

出来る確信はある、ただ、技術が追いつかない。

指が……

あぁっ!

大体、長いんだよこの曲……

 

もう一回やります。

one, two, three

 

私は、私を信じてる。

 

小さな暗い箱の中、

画面いっぱいに映し出されたモノクロの表情。

記憶を鮮明に甦らせる音楽。

 

『SUPER FOLKSONG ピアノが愛した女。』

92年に発表された矢野顕子のアルバムの制作現場を映し出したドキュメンタリー。

 

 天才なんて、この世に本当にいるのだろうか。
確かに彼女は天才と称すべき存在だが、
頭を抱え、ため息をつき、それでも! と、何度も音楽と向き合うその姿は、
天才という一言で、片付けることはできない。

頭の中に描き出された完璧を、
形にするために追求し続けた結果が、

そこには映し出されていた。

 

I made it !

 

ただまっすぐにひたむきな熱い想いが、

理想の姿を現実にする。

それを成し遂げた人は、やっぱり天才と呼ばれるのだろう。

例えそれが、意地と努力の軌跡だったとしても。

 

彼女が引き出した記憶を、

私はまたギュッと心の奥の奥に閉じ込める。

 

もう、痛くない。

音楽が終われば、記憶は過去に消えていく。

そもそも、いつの何の記憶だったのかさえ、

よくわからない。

ただ、彼女の創り出す世界観に、没頭していただけかもしれない。

 

わたしは。

自分のことばで、自分の世界を創るんだ。

たとえ特別なものがなくたって。

信頼と執念で創り出せる世界がきっとある。

ことばで照らし出せる世界が、きっとある。

絶望をやさしく包むことばが、必ずある。

 

わたしも、わたしを信じるんだ。

頭の中に描いたこの理想を、

確実に表現できるとただ信じて。

自分の人生を、新しい道を、

自分のことばで描き、走り出す

 

 

 

オシャレな人達がカフェで書き物をしているので、オシャレなフリして行ってみた

代休の月曜の午後。

普段なら、後回しにしがちな家事を済ませ、

映画を観たり本を読んだりしながら部屋で過ごす。

だけど今日はなぜだか部屋では落ち着かない、

ふと思い立って外に出る。

もしかしたら、何かヒントが見つかるかもしれない。

 

住みたい街ランキング上位の人気の街。

土日は混雑するカフェも、今日は静かだ。

 

洗練された店内には、

落ち着いた音楽が流れる。

 

女性同士の静かな笑い声。

お皿を洗う音。

シューーーっというエスプレッソの音。

 

ゆっくりと本を読みながら、

いろいろと書くべきことに思いを巡らせる。

 

「ババエロ いやーん」

 

ふと頭の中にことばが浮かんだ。

 

昔住んでいた国の言葉。

フィリピンのことばだ。

 

現地のことばを話せると言うと

「え、すごいね!」

「めっちゃ頭いいね!」

と言われることが多いが、そんなことはない。

 

なぜなら、フィリピンのことばは、

面白いからだ。

面白すぎて、忘れられなくて覚えてしまうのだ。

 

「ババエロ いやーん」

 

ババ・エロ・いやーん?!

 

こんな言葉の組み合わせを、

忘れることができようか、

いや、わたしにはできない。

 

フィリピンのことばで、

ババエは女性を意味する。

どんなに美人でも、だ。

 

ババエの衝撃。

 

フィリピンのことばを勉強し始めて、

まず初めに衝撃を受けたことばだ。

 

美しく愛らしい存在の女性に、

「バ」の破裂音を二つも重ねる。

もっと、「ササ」とか「フフ」とか

色々な組み合わせがあったはずなのに、

なぜ「ババ」を重ねたのだろう。

 

もちろん、ババエは性別としての「女」を表すから、年齢は問わない。

生まれたての赤ちゃんも、

その子が女の子なら、

「ババエ」なのだ。

世界で一番美しい「ババエ」なのだ。

 

そして問題の「ババエロ」だ。

 

バ、ババエロ?! 

 

初めてそのことばを耳にしたとき、

思わず自分の耳を疑った。

まさかそんなことばがあるなんて。

 

「ババエロ」

それは、女好きな男を意味する。

 

女たらしは「ババエロ」

 

なんとも言い知れない不思議な可笑しさに包まれる。

ババとエロが好きな男は「ババエロ」

連想するだけで、もう忘れることはできない。

 

そして問題の、

「ババエロ いやーん」だ。

 

イヤンは、あれ。

英語でいう「that」を意味する。

 

これ、それ、あれ

this,  it, that

いと、いよん、いやん

 

「いやん」は、

あれ、あの人を指している。

 

強調する場合には、

「や」と「ん」の間を伸ばし、

「いやーん」と発音する。

 

つまり。

 

「ババエロ いやーん」は、

 

「女たらしだよ、あいつは!」

 

という意味になる。

 

 

なんとも、なんとも言えないこのかんじ。

日本人だからこそ楽しめるこのかんじ。

 

フィリピンのことばは、こんなことばがたくさんある。

日本語と似てそうでなんか違う。

一度聞くと忘れられない。

面白すぎて言いたくなる。

そんなことばがいっぱいだ。

 

だから、

「え、すごいね!」

「めっちゃ頭いいね!」

と褒められると、くすぐったくて仕方がない。

 

わたしにとっては、

全力でふざけているだけだからだ。

「何これ、ウケる!!」が重なって、

語彙が増えていった。

そしてその呪文を唱えると、

そのことばが伝わって友達が増えた。

面白がって現地のことばで話す外国人を、現地の人も面白がってくれた。

だからわたしはフィリピンのことばが大好きになって、どんどん単語を覚えた。

ビックリマンシールとか、キン消しを次々集めるように、知らない単語をどんどん自分のものにしていった。

 

もちろん最初からそうだったわけじゃない。

フィリピンのことば、

タガログ語」を勉強しなければならないと思った時、「絶対無理!」「絶対難しい!」と思っていた。

タガログ語」が得体の知れない化け物にでも感じていたからだろう。

「知らない」が、大きな壁になっていた。

「知らない」からものすごいことのように感じるし、自分にはできないと思ってしまう。

 だけど、知ってみると、

「知らない」と「実際」は随分違ったりもする。

 

「知らない」を「知りたい」に変えられたら、

毎日はもっと面白くなるのかもしれない。

 めんどくさいな、できないな、を、ワクワクに変換できるエネルギーをどう補給していくか。

そこが鍵になるのかもしれない。

 

「ババエロ いやーん」

女たらしのどうしようもない男を思い出したら、このことばを呟いてみてほしい。

 

きちんと、怒りの感情も込めて。

 

「バーバエロ、いやぁーん!!!」

 

世界には面白いことばがたくさんある。

面白がってみれば、難しいも笑いに変わる。

 

ーーパッポ パッポ パッポ パッポ

 

鳩時計が時を告げる。

随分と長居してしまった。

 

結局、オシャレなカフェにいながら、

ずっと頭の中はふざけ倒しいていた。

オシャレなところに身を置けば、

スタイリッシュなアイディアが沸くかと思ったら。

結局、どこにいてもわたしは変わらないのだ。

だったら、

わたし自身を面白がって生きるしかない。

 まだ「知らない」わたしを、もっと面白がってみようと思う。

 

絶望が落としたもの〜collateral beauty

collateral beauty

コラテラレル ビューティ

 

生まれて初めて耳にしたそのことばに、

涙が止まらなかった。

3時間近くが経っていただろうか。

電車の中でも涙が溢れ、スマホの画面に目を落とすことができない。

ただひたすら泣きながら上を見上げ、

「春の金麦」の広告を読んでいた。

濃い青に、やわらかな桜色が映える。

 

言語化の力は、凄まじい。

そのことばの存在を知った瞬間、

見えなかったことが急に見えてくる。

 

collateral beauty

 

確かに、確かにそれはあったんだと気付く。

前からわかっていたような気はしていた。

でもどこかで受け入れようとはしなかった。

 

だけど。

 

スクリーンの中の彼女の台詞にハッとした。

collateral beauty

それは、そこにある。

確かに存在している。

 

だけど、ただそれだけなんだ。

 

ずっと思っていた。

そんなものいらない。

そんなものを手に入れるくらいなら、

死んでしまった人を返してほしい。

亡くなった人に会わせてほしい。

 

でも、それは違った。

 

collateral beauty

それと死とは引き換えにできない。

代わりに、なんてできない。

 

ただ、それはそこにあって、

その人は死んだ。

ただその事実があるだけなんだ。

 

若くして命を落とした大切な友人の家に、

わたし達はよく集まるようになった。

最初は、娘と同じ年のわたし達の姿さえ、

ご両親は見たくないんじゃないかと、戸惑った。

でも、あれからもうすぐ10年が経とうとしている。

最初は行く度に辛くて涙が止まらなかった。

だけど、そんな空気が変わったのは、

同級生の友人に赤ちゃんが生まれた時のこと。

新しい命が、死の苦しみや悲しみをすっぽりと丸く包んでくれた。

「あ〜、笑ったー♡」

「えー、何今の仕草ーー!!!」

部屋中に笑い声が響くようになった。

そうして時が経つにつれ、新しい命も随分増えた。

最近では託児所みたいに賑やかだ。

彼女がいないことで作られた、あたたかい空間が、そこにはある。

笑い声が響き、1人になって振り返ると、様々な気付きをくれる、そんな空間が。

 

collaterall beauty

 

あんなにも悲惨な死の側にも、

それはそっと置かれていった。

もしも彼女が帰ってくるなら、そこにいるみんなが喜んでそれを手離しただろう。

だけど、それは叶わない。

死は、死として存在している。

そこに、それもある。

ただ、それだけなんだ。

 

何も親しい人だけではない。

きちんと目を凝らしてみれば、

どんなつながりでも、そこにはそれがある。

 

数ヶ月前、突然入った訃報にわたしは戸惑いを隠せなかった。

決して親しかったわけではない。

同じ職場で、時々顔を合わせれば挨拶をする。

それくらいの付き合いだった。

それでも。

前途明るい青年が命を落としたという報せは、あまりに辛い。

どうか嘘であってほしいと願わずにはいられなかった。

 

彼とは一度だけお酒の席で話したことがある。

職場でも好かれていて華のあるタイプだったが、その席でも彼は好青年だった。

酔っ払って悪態つく同僚をうまく宥め、その場を和やかに保っていた。

 

彼はその時、

「実はやってみたい仕事がある」と話していた。

それはわたしの所属していた部署の仕事だった。

「だったら上に言ってみなよ」

「まずは伝えないことには、伝わらないよ」

その場にいる人がみんな彼を応援し、

彼も「そうですね」と深く頷いていた。

 

しばらくしてわたしは仕事を辞めた。

 

彼がその後、何か行動を起こしたのか、

その仕事をやりたいと願い続けていたのかもわからない。

亡くなった当時、彼は以前と同じ部署にいた。

 

collateral beauty

 

彼の死をきっかけに、わたしは自分の人生を考え直した。

わたしは本気で自分の仕事と向き合っているだろうか。

自分がやるべきことを、全力でやれているだろうか。

誰かが願った何かを、わたしは無駄にしていないだろうか。

人と人とが出会うことには、何か意味があるのだろうか。

 

collateral beauty

それは映画の中で

「幸せのオマケ」と訳されていた。

 

死の側に、その後に、必ずそこにある。

そっと残された気付き。

 

小さな娘を亡くした主人公は拒絶する。

「そんなものいらない」と。

 

でも、作品を見ていて思う。

それは何かと引き換えにすることも、

拒絶することもできない。

ただ、そこにあるだけなんだ。

そして、気付かない人は、気付かない。

虹がかかっていても、足元ばかり見ている人がいるように。

それは、ただそこにあって、それ以上の意味はない。

 

collateral beauty

それは、

「絶望が落としたぬくもり」

なんじゃないかと思う。

 

空気の中に蒸気が集まりすぎると雨になって落ちてくるように、

絶望が集まると、そこからぬくもりが落とされる。

 

絶望には、誰かへの愛情や、信頼、期待とか、そんなあたたかい感情が奥底に秘められている。

それがギュッと集まった瞬間、

収まりきれなくなった悲しみの中から、

奥に仕舞い込まれていたぬくもりが、ひとつ落ちてくる。

 

失って気付く大切なこと。

死が教える命の尊さ。

愛することの意味。

 

どんな死の側にも、

きっとそれは、そっと置かれている。

 

『COLLATERAL BEAUTY』

 

美しいことばや抽象的な概念の並ぶ世界観の中で、

大切な人を失った人の声が胸に刺さる。

 

「自分を取り戻したいんだ」

「無理よ。あなたは娘を亡くしたんだから」

 

大切な人を亡くしてしまった人は、

決してその悲しみを忘れ、乗り越えることはできない。

生きている限り、死と向き合い続ける。

 

 

「前を向こう。なんて、クソ喰らえ!!」

そう叫ぶ主人公を見ていると、

不思議と安心している自分がいる。

 

乗り越えなくていい。

乗り越えることなんて、できないから。

誰かにそう、はっきりと言ってもらいたかったのかもしれない。

 

生きている限り、死から逃げることはできない。

身近な人、大切な人、名前だけを知ってる人。

どんな人の死も、やっぱり悲しまずにはいられない。

 

それでも、死は絶望ではない。

collateral beauty

必ずそれはそこにある。

気付く事ができれば、

今日の自分を生きる事ができる。

 

原題『COLLATERAL BEAUTY』

邦題『素晴らしきかな、人生』

 

心の奥にしまいこんでしまった

死と向き合う時間、

それを味わう痛みを、思い出させてくれた。

「言語化」の力は、生きる力にもなる。

 

ことばにすることで、人は生きていく。

ことばにできれば、人は生きていける。

 

もうあんなに泣くのは嫌だけど、

誰かを失って辛い時、もう一度観たくなる作品だ。

 

逃げる者は、もう追わない。

朝目覚めると彼はもういなかった。

ついさっきまでそこにいた気配は微かに残っているのに。

脱け殻みたいな毛布の中に手を入れると、

少しだけまだ温かい気がする。

彼のにおいが、残っている気が。

でも、それは気のせいだ。

彼はもういない。

逃げたんだ。

それが事実だ。

 

彼は自然に現れ、気付けばいつもそばにいた。

慌ただしく過ごしていたわたしに、

「少しだけ休めばいいよ」と、

やさしく言ってくれた時が懐かしい。

 

だけど。

実際、彼が現れてからはもっと忙しくなった。

いつも通りのペースを保てず、

慌ただしい日が増えた。

 

それに。

彼がここに長く留まらないことはわかっていたんだ。

それでも、

「きっと大丈夫だよ」と自分に言い聞かせた。

 信じていれば奇跡が起こるかもしれないと、せめて思いたかったから。

 

今更悔いても仕方がない。

 ただ来るべき時が来ただけだ。

 

きっと次の人は、

ドラマティックにやってきて、

そしてまた劇的に去っていくのだろう。

 

それはどうすることもできず、

ただ受け入れるしかないのだ。

 

意を決し、カレンダーをめくる。

 

1月はいぬる、2月は逃げる、3月は去る

 

2月はあっという間に逃げていった。

跡形もなくただそこにいた気配だけを残して。

3月もきっと全速力で走り去るのだろう。

 ぼんやりしてたらすぐに4月がやってくる。

 

過ぎ去る時間が速いのは、

覚悟を決めて受け入れるしかない。

過ぎてしまうことにしがみつくのではなく、

今やるべきことに集中する。

 

さあさあ、月末が短かった分、

やることが盛りだくさんだ!

 

さよなら2月。また来年!