本日はNew Year's Eve

30代OLが「書き手」になる夢を叶えるドキュメンタリー

【ネタバレ注意】2018年のM-1グランプリ優勝の瞬間に見た世の中の縮図

「ぬあぁぁぁぁあああ、でもそうだろうなぁ」

 

今年のM-1グランプリの優勝者が決まった瞬間、思わず肩を落とした。

このあと、今年の優勝者について触れるので、結果を知ってもいい方だけ読んでほしい。

 

チャンピオンの無邪気で素直な喜びの声が響く。

 

無情

本当に。あの舞台の上の無情な空気感。

 

どうしようもないことだけど、何人ものベテラン勢が、グッと息を飲む音が聞こえたような気がする。

 

年に1回、今年1番面白い漫才師を決める大会、M-1グランプリ
漫才をやるコンビにとっては、1年間かけてこの大会に挑んでいる。

どうしても勝ちたい。

どうしても。

血を吐くような思いをしてきた努力が、報われるかどうかの瞬間。

 

全国でたった一組だけがチャンピオンになれる。

 

以前はデビューから10年以内、5年間の休みを挟んだあとはデビュー15年以内のコンビが対象に。

 

だからこそ、15年間、このチャンピオンを目指し、コツコツ舞台に立ち続けたコンビが、渾身の力をぶつけてくる。

 

技術も、力も、圧倒的なものを持っている。

 

だけど。

 

大会は、やはりLIVEだ。

その時の「空気」を支配できるものが、その日のチャンピオンになる。

その日の観客の、審査員の心を掴み、流れを、空気を支配できる力を持った人間が、その年のチャンピオンになる。

 

空気、流れ、タイミング、偶然、運。

 

努力と想いだけではコントロールできないそれらが、

勝敗を大きく分ける。

 

「やったー、やったー、やったー、やったー、やったー!!!!」

 

全身で優勝の喜びを表現する、霜降り明星せいや

今、大阪でも勢いのある若手芸人。

色々な先輩芸人にかわいがられ、

たくさんの先輩芸人が、これからの活躍を、願っていた、

 

はずだった。

 

 

だけど。

 

「やったー、やったー、やったー、やったー、やったー!!!!」

 

 

無邪気にはしゃぐせいやの後ろで、肩を抱き合うファイナリストジャルジャルの福徳と和牛の水田。

今年がラストチャンスだったジャルジャルは、

舞台で何度も磨きをかけてきた渾身のネタで挑んだ。

毎年「優勝候補」と言われる和牛も一緒だ。

全国の舞台を回る中で、観客のリアクションを受け、

何度も見直し、練習を重ね、磨きに磨きをかけた渾身のネタを4分に収めた。

 

だけど。

 

若さ、勢い。

 

それは時に、恐ろしいほどの力になる。

コツコツと大切に守り、磨き上げてきた質。

完璧なはずだったものが、負けてしまうことがある。

 

安定した上質な仕上がりが、

時に、ハラハラしてどうなるのかわからない荒削りな勢いあるものに、

空気を支配されてしまうことがある。

 

それはきっと、お笑いの舞台だけじゃない。

 

どんな業界でも、きっとそうだ。

 

「どうしてアイツが」

「なぜこの企画よりもあれが」

「なんであんな商品が」

 

その瞬間のために、死ぬ気でコツコツ重ねてきた努力が、

若さと勢いに、一気に覆されることがある。

 

だけど、それが事実だ。

 

冷静に考え、慎重に評価し、客観的に色々な事情を考慮すれば、違う見方もできるはずだ。

 

だけど。

 

人生は、LIVEだ。

瞬間瞬間が、勝負だ。

 

そんな中で、一瞬で人の心を奪うには、その場の空気を掴むには。

 

時に、技術や歴史や努力だけでは、

どうにもならないこともある。

 

そして。

 

長くその場にいた人であればあるほど、それを知っている。

だからこそ。

 

「どうして、あの時」

 

そんな眠っていた記憶が蘇ってくる。

 

あの時にもっと勢いがあれば。

あの時に、もっと覆せていれば。

 

だから。

あの時の悔しい想いがあったからこそ、

涙をこらえて、努力を積み重ねてきたのに。

 

「やったー、やったー、やったー、やったー、やったー!!!!」

 

はしゃぐせいやの後ろで、脱力して微笑むような和牛川西。

その向こう側には、ラストイヤーに掛けていたスーパーマラドーナ武智の闘志の抜けた表情。

 

今年も、M-1グランプリが、終わった。

終わったんだ。

結果が、出たんだ。

 

敗者復活戦で、2位で抜けられなかったプラス・マイナスも、今年がラストイヤーだった。

ファイナル出場のコンビが「敗者復活してほしくないコンビ」に口を揃えて名を挙げていたのは、プラス・マイナスだった。

 

視聴者が投票するシステムでは、圧倒的に不利な中、

それでも、15年間、それ以前からのお笑いに対する想いと技術とをすべてぶつけて

、会場で爆笑をとり2位まで上がってきた。

 

世の中には、努力だけでは、どうにもならないことがある。

ぶつけどころのない悔しさと、流すことのできない悔し涙と。

世の中には、そんな不条理な、昇華しきれない想いがたくさんある。

 

これがでも、現実だ。

 

去年は、泥水すすって這いつくばってなんとか生き延びてきたとろサーモンの優勝。

これは、みんなが手を叩いて抱き合って喜びやすい。

努力はいつか、報われる。

そんな希望を、見ている人に、与えてくれるからだ。

 

だけど今年のM-1グランプリは、きっと、30代以上の人にとっては、

クッと胸に迫るものがある大会だったように思う。

 

追っていたはずだった、攻めていたはずだった自分が、

いつの間にか、守りに入っていたことに気がつく。

それは決して、悪いことでも、間違っていることでもない。

正当にやっていれば、評価されることは、かならずある。

 

だけど。

合格点のその一歩先に行くには。

誰かの心を揺さぶるには。

その場の空気を支配するには。

 

技術と積み重ねだけでは、時に、足りないこともある。

そして、若さと勢いが脅威になる、瞬間がある。

 

「やったー、やったー、やったー、やったー、やったー!!!!」

 

優勝した霜降り明星せいやがはしゃぎ、粗品がグッと涙を堪えていたその舞台の上で。

あの舞台の上では、なんだか世の中の縮図を見るようだった。

 

「これだけ笑いをとったら仕方ない」と思う一方で、「負けてしまったあいつの思いも痛いほどわかる」という年配者。

自分たちの歴史を振り返りながらも、若い王者に負けを認めざるを得ない先輩達。

世代交代を目の当たりにしながら、新しい自分達の道を行く決意を固めるベテラン。

そして、その舞台を画面越しに見ていた人たち。

 

今年も、本当に、面白い大会だった。

さぁ、明日からまた、新しい1年が、始まる。

画面越しに見ていたわたしは、明日から、どうやって生きていこうか。

少なくとも、慣れてきたことに悠々としていてはいけない。

そんな、気合の入る、本当に、面白い大会だった。

友人からのLINEで気付いた、「これから」を生きていくために大切なこと。

「あの時は表情も違ったね」

友達からのLINEにハッとした。

 

表情が違うって、どういうことだろう。

自分では自覚がなかった。

たしかに、慣れないことばかりで、気が急いていた。

遊びは無駄なこと、無駄話もしない。

駄目なものは駄目。

無駄なものに埋もれたら、死あるのみ。

そんなことで頭が支配されていた。

 

だけど、彼女に会うことは心から楽しみにしていたし、

久しぶりに「あー楽しかった!」ってこころから思った日だった。

 

でも、彼女にとっては違った。

その日のわたしは、攻撃的で気が立っていたらしい。

いつものわたしとは、ことばも、表情も違ったようだった。

 

--そっかぁ。

ちょっとショックだった。

言われたことじゃない。

変わってしまう自分だった。

 

自分にはちゃんと軸があると思っていた。

どんな時でも、大切な人を大切にできると思っていた。

でも、それは、ひとりよがりだった。

 

きっとその時だけじゃないだろう。

 

これまででも、

やさしくしたつもり、

楽しませたつもり、

一生懸命やったつもり。

 

そんな「つもり」だけで、

大事にできず、傷つけてしまった日が、人達が、たくさんいるのかもしれない。

 

それじゃ、いけないのに。

ごめんなさい。

 

本当は、傷ついてしまった人に、ちょっとでも笑ってもらいたくて、

誰かを傷つけることでしか自分を保てない人が、自分自身に夢中になれるようなきっかけを作りたくて、

それで、書くことを続けようと思ったのに。

 

いつのまにか、わたしの生き方が、生き様が、誰かを攻撃したり、傷つけたりするようになってしまっていた。

 

だからだろう。

こないだ1年ぶりに実家に帰った時、友人に会いに行くことが、できなかった。

「時間がない」って言い訳をしたけれど、それは違う。

時間なんて作ればいくらだってある。

自分で、行かない、と、決めたんだ。

行けなかったんだ。

自信がなかったから。

合わせる顔がなかったから。

 

あなたが生きられなかった「それから」を、

わたしは、大切に生きています。

 

そう、手を合わせて伝えられる、自信が、なかったから。

 

そうだ。

彼女がいなくなってしまってから、わたしの人生は、大きく変わった。

しばらく受け入れられなかった。

自分の大事なものは、自分の手で守り続けなければ、失ってしまうということを、初めて知った。

 

だから、自分の生き方を、考え続けた。

何をすれば、後悔しないだろう。

どう生きれば、彼女に堂々と会いに行けるだろう。

どうしたら、彼女のように悲しい事件で命を落とす人がいなくなるだろうか。

 

答えのない答えを探し続けた。

何度も失敗して落ち込んでは、なんでわたしじゃなく彼女だったんだ、と、自分を責めた。

わたしには、何もない。

できることなんて、何もない。

そう思ってはまた立ち上がって挑戦し、「ちゃんと生きる」の意味を問い続けた。

 

そうやって出会ったのが「書くこと」だった。

 

自分が思うこと、出会ったものを、ことばにすることで、

誰かの経験や物語を、代わりに書くことで、

なにかを変えられるような気がした。

 

泣いていた人が、思わずプププって笑ったり、

誰かを攻撃することで自分を守ろうとしていた人が、自分に夢中になったり、

 

なんにもないわたしだけど、

なんもできないわたしだけど、

いろんな人と人をつなぐ「書くこと」であれば、それができるかもしれない。

そう、思った。

 

それからは、もっと速く、もっと上手くと、必死になった。夢中になった。

そうしているうちに、まだダメだ、これでも足りないと、自分に鞭打つようになった。

そうやって鬼の形相で走り続けるうちに、どこに向かっているのか、わからなくなってしまった。

何のために走っているのか、

どうして走り始めたのか。

そんなことも見えなくなってしまっていた。

 

「あの時は表情も違ったね」

友達からのLINEにハッとした。

 

そうか。そうだったのか。

見失ってしまっていることにすら、気づかなかった。

だけど、よかった。

友達がいてくれて、本当によかった。

いつだってそうだ。

迷子になった時、

下しか向けない時、

行くべき場所に手を引っ張ってってくれるのは、いつも友達だ。

 

そんな出会いに感謝をして、

いつまでも忘れちゃいけない。

裏切っちゃいけない。

二度と、悲しい理由で、失いたくない。

 

そのために。

変わるのは自分だ。

やわらかな強さを、こころに保つ。

軸を持って、書き続ける。

書くことには、生き様が出る。

そのためには、まっすぐに、しなやかに、穏やかに、自分を保って生きなければならない。

 

一度、失敗してよかった。

大切なことに気づけたから。

もう迷わない。

今度帰省するときは、自信を持って、あの子に会いに行くんだ。

 

ちゃんと生きてるよ。

相変わらず失敗ばかりでどうしようもないわたしだけど、

それでも。

それでも、あなたの生きられなかった「それから」を、精一杯生きています、って。

どうかこれからも、見守っていてくださいね、って。

 

魚が、魚らしく泳げることばを、集めていこうと、思います。

「わかるなぁ」

自分のことを本当にわかってくれる友人の「わかるなぁ」は、どうしてこうも、心に染みるんだろう。

 

あぁ、よかった、これからも生きていられる。

そうやって安心する。

なんだか、深い深い海の底から、ぷはぁっと顔を出して、ようやく息ができる気分だ。

 

いつからだろう。

気づくと、息ができなくなっていた。

自分では出したことのないスピードで走り出して、

気づけば、スッテーンと派手に転んでいた。

 

どこかで、立ち上がることはできたんだろうか。

むしろ、転んで地面に付いている意識すら、なかったのかもしれない。

 

気づくと、なんだか、もう疲れていた。

疲れて、起き上がることすらままならなかった。

世界はゆっくりとぐるぐる回って、息ができなくて、

そして、友達も家族も、遠く感じた。

 

意識的に遠ざけていたからだろう。

どうやって近づいたらいいかが、わからなくなっていた。

 

だから。

自分の気持ちを隠して、水の中に潜るのをやめてみた。

水の中は、思いし、苦しい。

だからこそ、体を鍛えることは、できる。

でも、たとえ、誰かにぶつかられても、沈められても、外からは見えない。

自分の意思で沈んで行ったとしても、気づけば、息が苦しくなって、どうしたらいいか、わからなくなる。

何も、見えなくなる。

 

小さい時、3歳か4歳くらいだろうか。

川で溺れたことがある。

しかも、底の浅い川だ。

兄は、「あの川で溺れる方が難しい」と大きくなってから笑っていた。

 

そう思う。

いくら運動神経が悪いからって、何も、

立てば足がつくようなところで、むしろ、腰あたりまでしか水のないところで、

溺れる方が、却って難しい。

だけど、あの時は、本当に溺れたんだ。

足を滑らせたのか何かはわからない。

気づいた時には、水の中にいて、

白い世界に丸がいっぱいあって、

「苦しい」と「怖い」でいっぱいだった。

 

ぷはぁって飛び出した時、なんとなく体に手をかけられて、

それで、お父さんの顔があった時、

「あぁ、よかった」ってすごく安心した覚えがある。

 

死ぬかと思った。一人じゃダメだった。

「助けられる」というのを実感した時だった。

 

自分は大丈夫って、思っていると。

これくらいなんてんことないよ、って思っていると。

安心しきっていると。

足元をすくわれることがある。

 

「危ない!」って意識がなければないほど、

足を滑らせた感覚がなければないほど、

気づけばあっという間に、水の底に、沈んでしまう。

 

だけど。

 

きっと大丈夫だ。

誰かが、助けてくれる。

きっと、手を伸ばしてくれる。

 

他の人から見たら、バカみたいな転び方かもしれない。

そんなとこボーッと寝転んでないで、サッサと走れよ、って、思っているんだろう。

どんなに視界が悪くなろうと、頭が働かなかろうと、息ができなかろうと。

どうしてか、そういう人の本音は伝わってくる。

水の中にいるときくらい、他人の気持ちに鈍感になれたらいいのに。

 

だから、全部を諦める。

もがけばもがくほど、沈んでいく。

全部を手放して力を抜いたら、きっと、どこかには浮いていけるはずだ。

 

なにも、運動神経が悪いから、抜けてるからって、どこでも溺れてしまうわけじゃない。

泳ぎが得意な魚だって、淡水魚が海へ出たら、あっという間に死んでしまう。

海水魚が川へ登ったら、苦しくなって死んでしまう。

住むべきところ、いるべきところを見誤れば、あっという間に苦しくなってしまう。

 

海に暮らす魚は、海が最高なのになー、と思い、

川に暮らす魚は、川は暮らしやすいのになーって思う。

魚それぞれだ。

みんなあちこち旅をして、ようやく暮らすところをみつけてる。

 

もしも苦しいなら、息ができないなら、

泳ぎやすいところへ向かえばいい。

スイスイいきていける川や海を探せばいい。

 

「わかるなぁ」

自分のことを本当に理解してくれる友人のその言葉は、何より救いになる。

わたしがサボってる時は「何やってんの!」って、ちゃんと叱ってくれる。

わたしが間違っていれば、ひとつずつ説明してくれる。

そんな友達の「わかるなぁ」は、おばあちゃんちで飲んだ緑茶みたいに、あったかく、こころに、染み渡る。

ことばって、こんなにやさしいんだなぁ、と、なんだか、泣きたくなる。

 

そうだ。

ことばは、やさしいんだ。

人を傷つけるためじゃない。

本当はきっと、人を励まし、癒し、あっためるためにあるんだ。

誰かを攻撃するのではなく、

誰かをそっと抱きしめるためのことば。

そんなことばを、こころの中に集めていこう。

そしたらきっと。

水の中に沈んでしまった誰かに、手を伸ばすことができる。

 

弱ってる誰かを、スイスイ泳がせてくれる、

元いた場所へと、連れてってくれる、ことば。

 

そんな、そんなことばに触れて、囲まれて、自分の中にためていこう。

いつかそんなことばを、自分のことばにできるように。

 

大人になるにつれ、幼き頃の母の教えが身に染みる

「心の中では四六時中ブチ切れていますよ」

「ええっ?!」

 

謙遜したつもりが、度が過ぎていてドン引かれることがある。

 

わたしはどうも外面が良いようで、出会ったばかりの人には「怒ることなさそうだよね」と言われることが多い。

 

そんなことはない。

満員電車でつま先踏まれれば、

全力で振った炭酸を渡してやろうかと思うし、

店員さんに雑にお釣りを渡されれば、

節分の豆まきみたいに投げ返してやろうかと思う。

 

日常の些細なことでさえ、

イライラしてしまうことはたくさんある。

 

それでも、わたしが「怒らなそう」と思われることには、思い当たる節もある。

 

それは恐らく、幼き頃の母の教えが、いまだに根底にあるからだと思う。

 

「腹の立つやつなんかと、同じ土俵に立つな」

こどもの頃、何か理不尽なことに怒っていると、母はよくそう言っていた。

 

「世の中理不尽なこともあるし、くだらないやつもいる。だけど、いちいち腹を立てて同じ土俵に立ったら負けだよ。自分のレベルがさがっちゃうよ」

当時まだ幼かったわたしは、歯を食いしばり、涙も鼻水も垂れ流しながら、腹の立つ奴らを頭に浮かべ、

「おなじ、どひょうに、たちたくない」と、

心の中で繰り返していた。

 

だから、わたしは腹が立つときは黙る。

相手はなんでそんなことをしているんだろう。

どういう意味で言っているんだろう。

わたしはどうするべきだろう。

どうすれば、同じ土俵に立たず、闘わず、解決することができるだろうか。

 

たとえ腹の中は煮えくり返っていても、

それを出さない自分との闘いを続ける。

 

それもうまくいきそうにないときは、

もう、笑ってしまうしかない。

 

腹の立つことがあったら、

腹の中でぐるぐる巡ってるマグマみたいな感情を、「あははは」と言いながら、口から吐き出す。

溜めてしまったらきっと、怒りに食いつぶされてしまう。

だから、笑う。

自虐でもふざけても、なんでもいい。

ただ、笑う。

ステージを変えるんだ。

そうすれば、何が本論だったかわからなくなる。

それでいい。

わかってしまえば腹が立つ。

笑いのレベルは低くていい。

滑ってもいい。

ただ、「あははは」って声を出すタイミングを作るんだ。

 

そうすれば、ぐにゃんと世界が歪んで、足元が変わる。

気づけば、腹の立つ人と一緒にいた土俵から飛び出して、トランポリンでふわふわ飛んで、別のところに移動できる。

腹が立ったことも、忘れることができる。

 

さらに母は、こうとも言っていた。

 

「それでも腹が立つなら、おならかけてやれ。それくらいの気持ちで接しなさい」

 

え?! お、おならですか?!

そ、それは教育としてどうなんでしょうか?(笑)

 

でも、これは不思議な魔法のことばだ。

 

ほんとに許さないから、おならかけてやろう! って思うと、案外笑けてきて

「まぁ、そこまででもないか」という気持ちになる。

 

だって、その人にだって、家族がいる。

夢がある。

きっと、好きな本とか座右の銘もある。

今も心の中で忘れられない初恋の人とかがいるはずなんだ。

 

そんな人に、おならをかけるのは、さすがに、人として忍びない。

その人は、それに値するだけのことをしたのだろうか?

そう、自分に問うてみる。

 

すると、

「いや、そこまでじゃない。そこまでは腹が立ってない。うん、ならもういいや」

と、スーッと怒りが消えていく。

 

あまり大きな声でおススメはできないが、わたしにとっては、魔法のことばだ。

 

そんな幼い頃の母の教えは、

案外30過ぎた今、胸に響くものが多い。

大人になるにつれ、人間環境や作業がふくざつになっていくだけで、きっと、こころは、そんなに変わらないんじゃないだろうか。

5歳とかそのくらいのこどもに、

母がなんて伝えたらいいんだろうと、考えに考え抜いて発したことば。

わかりやすくシンプルな教え。

 

それは今だから、大人になった今だからこそ、きっと、心に響いてくるのかもしれない。

 

人生に時々起こる正解がまったくわからないこと。

「え……」

思わずラブホの前でタバコを吸っていた男性に目を向けた。

彼も困惑しているようだ。

 

どうしようか。

間違っているのか。

そうなら声をかけた方が親切なんだろうか。

いや、どうやって?

 

それに、もし、もしも、間違っていなかったらどうする。

余計なお世話にもほどがある。

 

タバコを吸っている男性の向かい側の通り。

こっちにも、一軒古いラブホテルがある。

 

数時間の休憩で数千円のボロいホテル。

 

その入口に向かって、

ゆっくり、ゆっくりと、

腰が曲がって杖をついたおじいさんとおばあさんが、

ゆっくり、ゆっくりと進んでいる。

 

なんとも似つかわしくない違和感のある光景。

 

ーーえ、いいんですかね? 止めなくていいですかね??

と、反対側のホテルの前でタバコを吸う男性を見やる。

 

--し、知らないよ。こっち向くなよ!!

という表情のお兄さん。

 

正解がわからず、そのまま過ぎ去るわたし。

 

その建物が何かを知っていて、

それでも休めるところを探していたのか。

 

それとも何も知らずに「休憩」できるところと思って入ってしまったのか。

 

んー、それともそれが何かも知っていて、それが目的で入っていったのか……

確かに、そんな小説あったなぁ。

 

いや、でも。

 

人生には時々、正解が全くわからないことがある。

35年近くも生きていれば、大抵、これはこうかな? と想像がつくことが増えてくる。

 

この人、いま落ち込んでるから、こうしたら喜んでくれるかな。

この人、今はすごく怒ってるけど、でも、本当はこう言ってほしいんじゃないかな。

 

もちろん、それが毎回そうなるとは限らない。

勘違いのことだってたくさんある。

 

だけど、10代、20代の頃に比べれば、想像がつくことは増えてきた。

 

でも。

 

時々やっぱり、何をどう考えても理解できないことがある。

ある種のカルチャーショック。

 

でも、だからこそ、人生は面白いのかもしれない。

 

慣れたって調子に乗ってれば転ぶ。

わかった! って知った気になってれば落とされる。

 

きっと、人生は綱渡りみたいなもんだ。

絶対大丈夫なことなんて、何一つない。

毎回が命がけだ。

 

そう思ってどんなことも真剣に考える。

どうでもいいよと思わずちゃんと向き合う。

 

そうやって一つずつ綱渡りの難易度を上げてクリアーしていけば、自分に自信が持てるようになる。

そして、不安定な綱を渡るために、余計なものは捨てていく。

素直に、シンプルに、真っ直ぐに。

 

うーん、だけど、やっぱりわからない。

 

あのおじいさんとおばあさん。

まるで漫画のように腰が折れ曲がって、杖をついて、カタカタ震えながらゆっくりと歩いていたおじいさんとおばあさん。

 

無言でカタカタと、ラブホに吸い込まれていった。

 

最近は、女性同士でコスプレの撮影会などでラブホを利用する人もいるらしい。

全く思いつかないような、だけど、ちょっとだけ軸をずらしたところに、ヒントがある。

 

きっと。

あのおじいさんとおばあさんの答えにも、何かヒントが隠れているのだろうと思う。

 

どうでもいいし、くだらない。

だけどきっと、そんなことを真剣に面白がれたとき、何か新しいことが、始まるんだと思う。

 

ん?

 

え?

 

ま、まさか、おじいさんとおばあさんも、コスプレの撮影会?!(笑)

 

世の中にイノベーションなんて起こさなくてもいい。毎日にちょっとだけ波風を起こせば、なんだか日常が面白くなってくる。

「世の中は、常識を疑う偏屈な人たちによって変わってきた」と、何かで読んだ。

 

他の人が「そんなの当たり前だよ」と思い、疑いもしなかったことに、疑問を持つ人。

 

例えば「外国」もそうだろう。

 

「海には向こう側がある」と世界で初めて気づいた誰かがいたはずだ。

「いやいや何言ってるの、海はあそこで終わりだよ」とみんなは言うのに、

「いや絶対向こう側がある!」と、きっと言い張った人がいるはずだ。

 

それで行ってみたら、海には向こう側があった。

それは、日本の人かもしれない。

海外の人かもしれない。

 

もちろん、大航海をした人は教科書に載っているけど、最初にそう思った人が、その人とは限らない。

 

きっと中学生みたいなノリで

「俺、海の向こう側行くぜー」とか言い出した人がいるんだ。

 

そのうちに「こんなこと言った馬鹿がいてね」という笑い話を天才が耳にして

「それだ!」と実現のための行動に移したんだ。

 

何も大きなことだけじゃない。

日常のささいなことだってそうだ。

 

例えば生まれて初めて、頭を洗った人とかだ。

それまではきっと誰も気にしてなかったのに、水をかぶった瞬間に「あれ? なんかいつもと違う」って、気づいた人がいるんだ。

 

みんなが「いやいや濡れて乾いただけでしょ(笑)」って笑う中、

「いや、違うってサッパリするよ!」

「今日はベタベタがない!」

「てか、鼻をふんふんした時の空気が違う」

そうやって言う中、いつのまにか、

「ホンマや!」って言う人が現れて、それが習慣化されていったのかもしれない。

 

そう思うと、昔の昔は、毎日いろんな発見が楽しかったんじゃないだろうか。

まだインターネットもなければSNSもない。

世の中ではとっくに見つかっていることでも「世界で初めて見つけた!!!!」って感動があちこちであったはずだ。

 

「なにこれ?!」って誰かが言って、

「いやいやいやいや」って、みんなで笑って、

「え、マジだ?!」ってみんなで目を合わせて。

 

え、もっかいもっかい! ってみんなで騒いで。

 

あ、でもそう考えたら、もしかして、今もそんなに大して変わらないかもしれないな。

 

そりゃ、世界初や世の中を変えるような、そんな新しい発見にはそうそう出会えるものじゃない。

 

だけど、「わたしの人生で初めて」なら、視点を変えれば日常に溢れているはずだ。

そうやって毎日「初めて」を重ねて楽しんでいけば、何か、新しいことに出会うかもしれない。

 

そんなことを思って、普段はやらないことをやってみた。

 

お昼ごはんは、初めて行くお店に入る。

あれ? ここにこんなお店あったっけ?

え、なにこれ美味しいな!

うーん、だけどやっぱりいつものファミマがいいな。

 

ごはんを食べるという行為の中で、毎日いろんな発見と出会いが生まれてくるようになる。

知らなかったことに気づくこと。

知っていたことの理解を深めていくこと。

なにかを決めると、何かが見えてくる。

 

例えば、今まで観たことのなかったアニメを真剣に観てみる。

え、次どうなるの?!

そんなこと言ったらあの人がかわいそうだよ。

うぇー、ここでそんなことあるーー???

いつも以上に心が揺さぶられる。

なんとなくテレビがついてたり、人から話を聞いても、そんなに興味は惹かれなかった。

だけど「真剣に観る」って決めて観ると、これが、面白い。

夢中になる。

発見ばかりだ。

 

「世の中を変える」

「常識を疑う」

そんな大それたことに、チャレンジはしなくてもいい。

 

だけど「新しいことを見つける」「真剣にやる」「楽しむことに没頭する」「ダメって決めつけない」

そうやって、いろんなことを心の中で決めてみる。

慣れてきたら、決めてたことをやめてみる。

 

そうやって、自分の人生に波風を起こしていくと、なんだか毎日に動きが出てくる。

 

あ、ここで毎回嫌な気持ちになるな。

これは何度やっても好きだな。

え、これってこんな感情になるんだ。

 

毎日まじめに生きる必要もない。

他人に働きかける必要もない。

 

自分自身の中でチャレンジを起こせば、毎日がちょっとだけ面白くなる。

他人の評価は気にならなくなり、自分に集中して考えることができる。

 

自分に集中したところで、案外他人は気にしない。

妙に気にする人がいれば、距離を保てばいい。

 

「わたしの人生はこうあるべき」

そんな自分自身を偏屈になって疑ってみると、いつもと違う見え方ができる。

そんな生き方も、ちょっと、面白いのかもしれない。

 

 

 

せ、せ、世間の人は、あの5分のあとに、仕事に行ったんですか?! 今日ばかりは取り乱すことをお許しください。

「な、な、な、なんじゃこりゃぁぁあああああ?!!!!」

 

そう思った瞬間、

「なに、これ……」という声がテレビから聞こえてくる。

 

そりゃあ、そうでしょう。

やっぱりそうですよね。

そうなりますよね。そう言っちゃいますよね。

なんですか、ありゃあ。

今日ばかりは取り乱しますよ。

 

鈴愛と律のあの5分。

 

あぁ、なんですか、あれは。

 

わたしはいつも朝ドラは録画をして、だいたい夜中に観ています。

普段はテレビは字幕付き倍速で鑑賞。

だけど、面白いなと思う番組。

これは好きだな、って思う番組。

その場合は、等倍速解禁です。

時間をたっぷり、そのまま鑑賞します。

 

今シーズンの朝ドラ『半分、青い。』もそのひとつ。

倍速はやめて、15分丸々堪能します。

 

佐藤健と同じ日に同じ病院で生まれるわけないだろー!

そんな夢のような幼なじみいないだろー!

と叫びつつ。

それはドラマです。

現実には時にうんざりしたり、幻滅させられる毎日です。

ドラマくらいぶっ飛んだ夢を見せてほしい。

筋道なんて気にしないから、とにかく現実には起こらない夢物語を求めたくなります。

 

そんな中。

毎日、鈴愛と律がどうなるか、やきもきしておりました。

 

永野芽郁演じる鈴愛と、佐藤健演じる律。

同じ日に同じ病院で生まれた幼なじみ。

付かず離れず微妙な距離を保ちながら、気づけば40代。

 

え、40?!

そこまで待たせますかい?

30代で、なんともなりませんでしたかね。

 

と、まぁ待ちに待ったこの瞬間!

 

今日のあの5分は、もう。

なんだか全てが報われるような5分間。

もう、細かいことぜーんぶ忘れて、あの5分感に浸りたい。

そんな、待ちに待った悶絶の瞬間でした。

 

誰ですか、40代の寝起きのキスはキツイとか言うのは(笑)

そこはいいのです。夢の40代、創作の40代。

現実には起こらないからこそ、ドラマで観たいのです。

 

だって、やっぱり。

あの、突然手を重ねられる瞬間と、

そして後ろから抱きしめられるあの瞬間。

そこに、嘘はないと思うのです。

 

他には、嘘をつける瞬間がたくさんある。

本気じゃなくても、進められる瞬間があるかもしれない。

 

だけど、あの瞬間だけは、嘘がない。

もしも嘘だったらわかってしまう。

嘘がつけない瞬間なのです。

 

あぁ。

世間は、あの5分を観てから仕事に行ったのでしょうか。

メンタル強すぎですね(笑)

もしくは現実主義ですね。

 

わたしはだめです。

あんなの朝から見てしまったら、どひゃーーーーとなってしまい、その日1日仕事が手につかなくなると思います(笑)

 

あぁ、よかった。

そうなんですよね。

好きな人ができると、

うんうん悩んだり、試行錯誤したり、ドギマギしたり。

だけど、本当に心が通う瞬間はものすごく自然で、そうなることが決まっていたかのような、まるでシナリオをなぞっていくかのような。

そこには努力とか焦りとか不安はなくて、ものすごく自然だと思うのです。

 

あぁ、いいですね。

 

そして、一瞬。

なんですよね。

その瞬間は。

 

ずっと続いてほしい。

そんな瞬間が終わらないでほしい。

 

なんだか時間が止まったような感覚。

いつからか、ずっと待っていたような感覚。

 

ゆっくりと自然にその瞬間が訪れて、

そしてまた、ゆっくりと自然に時間が流れていく。

 

ステキな5分間でした。

あの5分だけで、

ごはん3杯食べられるくらい、

記事3つかけるくらいのエネルギーをもらいました。

 

さぁさぁさぁ。

奇跡の瞬間は一瞬です。

明日からが本番です!

一体明日から、どんな展開が待っているのでしょう。

 

ですが、今日くらいはあの5分に浸りたい。

今日くらいは取り乱したい。

きっと、わたしの平凡な毎日に揺さぶりをかけるのには、必要な5分でした。

 

はぁあ。

今日はいい夢見られそうです。