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本日はNew Year's Eve

30代OLが「書き手」になる夢を叶えるドキュメンタリー

天才が天才たらしめる軌跡を映し出したドキュメンタリー〜25年の時を経て甦るため息

映画

ーー痛い

 

彼女が口を開いた瞬間、胸の奥をギュッと掴まれた。

 

やわらかく力強い旋律を奏でる彼女の吐息。

スーッと、記憶の奥に入り込む。

 

この胸の痛みは、いつの痛みなんだろうか。

ギュッと掴まれて、一瞬チクっとして、

じわっと、あったかくなる。

 

これは現実ではない。

記憶だ。

頭ではわかっているのに。

心が、彼女の作り出す世界から抜け出そうとしない。

 

彼女が口を開く度。

そのメロディに胸が苦しくなる。

奥の奥に仕舞い込んだあの日の記憶を絞り出すかのように、キューッと、痛くなる。

 

あの日。

その指先に初めて触れた、あの日のことだろうか。

わざとゆっくり歩くわたしを、じっと待っていてくれた、あの日のことだろうか。

目の前にいるのに、後ろを向いてしまったその背中に触れることができなかった、あの日のことだろうか。

 

これは、記憶なのに。

気持ちじゃなくて、記憶なのに。

 

どうして彼女が口を開くだけで、こんなにも体が震える程に甦ってくるのだろう。

どうしてその吐息には、そんなにも命が宿っているのだろう。

 

エンドロールが流れ、ゆっくりと会場が明るくなる。

 

確かなことは、何も思い出せない。

ただ。

 

あの日。

 

その日は、確かにあった。

誰かを想った過去があった。

そのことだけを、全身が記憶していた。

 

ーー痛い

 

彼女の歌う『中央線』は、

あんなにもやさしく記憶を紡いでくれるのに。

現実の金曜の夜の中央線は、

ただの現実でしかない。

残業に疲れて眉間に皺を寄せる人と、

早くから酒を煽って臭気を放つ人達が、

居場所を確保するために、押し合っている。

 

それでも。

 

彼女の歌声は、そんな現実にも救いを与えてくれる。

 

過去にはあった。

記憶の中には、確かに残っていた。

胸が痛くなるほど、恋い焦がれた日。

どこまでも青い海の向こうを追いかけて、

きっとその向こうまで行けると信じた日。

ばかみたいに、前だけを見ていた日々。

 

ただ、彼がいて、私がいた。

 

流れてしまう時間を、

変わってしまう人の心を、

向き合いたくない残酷な現実を。

 

彼女はそっと拾い出し、旋律に閉じ込める。

やわらかな吐息で奏でるそのメロディは、

あの日があったことを思い出させてくれる。

 

ーー走り出せ、中央線

 

"ピアノが愛した女"矢野顕子が、

唇を噛み、拳に怒りを込め、天井を仰ぎ、

何度も繰り返し触れようとした、完璧な一瞬。

 

出来る確信はある、ただ、技術が追いつかない。

指が……

あぁっ!

大体、長いんだよこの曲……

 

もう一回やります。

one, two, three

 

私は、私を信じてる。

 

小さな暗い箱の中、

画面いっぱいに映し出されたモノクロの表情。

記憶を鮮明に甦らせる音楽。

 

『SUPER FOLKSONG ピアノが愛した女。』

92年に発表された矢野顕子のアルバムの制作現場を映し出したドキュメンタリー。

 

 天才なんて、この世に本当にいるのだろうか。
確かに彼女は天才と称すべき存在だが、
頭を抱え、ため息をつき、それでも! と、何度も音楽と向き合うその姿は、
天才という一言で、片付けることはできない。

頭の中に描き出された完璧を、
形にするために追求し続けた結果が、

そこには映し出されていた。

 

I made it !

 

ただまっすぐにひたむきな熱い想いが、

理想の姿を現実にする。

それを成し遂げた人は、やっぱり天才と呼ばれるのだろう。

例えそれが、意地と努力の軌跡だったとしても。

 

彼女が引き出した記憶を、

私はまたギュッと心の奥の奥に閉じ込める。

 

もう、痛くない。

音楽が終われば、記憶は過去に消えていく。

そもそも、いつの何の記憶だったのかさえ、

よくわからない。

ただ、彼女の創り出す世界観に、没頭していただけかもしれない。

 

わたしは。

自分のことばで、自分の世界を創るんだ。

たとえ特別なものがなくたって。

信頼と執念で創り出せる世界がきっとある。

ことばで照らし出せる世界が、きっとある。

絶望をやさしく包むことばが、必ずある。

 

わたしも、わたしを信じるんだ。

頭の中に描いたこの理想を、

確実に表現できるとただ信じて。

自分の人生を、新しい道を、

自分のことばで描き、走り出す

 

 

 

オシャレな人達がカフェで書き物をしているので、オシャレなフリして行ってみた

代休の月曜の午後。

普段なら、後回しにしがちな家事を済ませ、

映画を観たり本を読んだりしながら部屋で過ごす。

だけど今日はなぜだか部屋では落ち着かない、

ふと思い立って外に出る。

もしかしたら、何かヒントが見つかるかもしれない。

 

住みたい街ランキング上位の人気の街。

土日は混雑するカフェも、今日は静かだ。

 

洗練された店内には、

落ち着いた音楽が流れる。

 

女性同士の静かな笑い声。

お皿を洗う音。

シューーーっというエスプレッソの音。

 

ゆっくりと本を読みながら、

いろいろと書くべきことに思いを巡らせる。

 

「ババエロ いやーん」

 

ふと頭の中にことばが浮かんだ。

 

昔住んでいた国の言葉。

フィリピンのことばだ。

 

現地のことばを話せると言うと

「え、すごいね!」

「めっちゃ頭いいね!」

と言われることが多いが、そんなことはない。

 

なぜなら、フィリピンのことばは、

面白いからだ。

面白すぎて、忘れられなくて覚えてしまうのだ。

 

「ババエロ いやーん」

 

ババ・エロ・いやーん?!

 

こんな言葉の組み合わせを、

忘れることができようか、

いや、わたしにはできない。

 

フィリピンのことばで、

ババエは女性を意味する。

どんなに美人でも、だ。

 

ババエの衝撃。

 

フィリピンのことばを勉強し始めて、

まず初めに衝撃を受けたことばだ。

 

美しく愛らしい存在の女性に、

「バ」の破裂音を二つも重ねる。

もっと、「ササ」とか「フフ」とか

色々な組み合わせがあったはずなのに、

なぜ「ババ」を重ねたのだろう。

 

もちろん、ババエは性別としての「女」を表すから、年齢は問わない。

生まれたての赤ちゃんも、

その子が女の子なら、

「ババエ」なのだ。

世界で一番美しい「ババエ」なのだ。

 

そして問題の「ババエロ」だ。

 

バ、ババエロ?! 

 

初めてそのことばを耳にしたとき、

思わず自分の耳を疑った。

まさかそんなことばがあるなんて。

 

「ババエロ」

それは、女好きな男を意味する。

 

女たらしは「ババエロ」

 

なんとも言い知れない不思議な可笑しさに包まれる。

ババとエロが好きな男は「ババエロ」

連想するだけで、もう忘れることはできない。

 

そして問題の、

「ババエロ いやーん」だ。

 

イヤンは、あれ。

英語でいう「that」を意味する。

 

これ、それ、あれ

this,  it, that

いと、いよん、いやん

 

「いやん」は、

あれ、あの人を指している。

 

強調する場合には、

「や」と「ん」の間を伸ばし、

「いやーん」と発音する。

 

つまり。

 

「ババエロ いやーん」は、

 

「女たらしだよ、あいつは!」

 

という意味になる。

 

 

なんとも、なんとも言えないこのかんじ。

日本人だからこそ楽しめるこのかんじ。

 

フィリピンのことばは、こんなことばがたくさんある。

日本語と似てそうでなんか違う。

一度聞くと忘れられない。

面白すぎて言いたくなる。

そんなことばがいっぱいだ。

 

だから、

「え、すごいね!」

「めっちゃ頭いいね!」

と褒められると、くすぐったくて仕方がない。

 

わたしにとっては、

全力でふざけているだけだからだ。

「何これ、ウケる!!」が重なって、

語彙が増えていった。

そしてその呪文を唱えると、

そのことばが伝わって友達が増えた。

面白がって現地のことばで話す外国人を、現地の人も面白がってくれた。

だからわたしはフィリピンのことばが大好きになって、どんどん単語を覚えた。

ビックリマンシールとか、キン消しを次々集めるように、知らない単語をどんどん自分のものにしていった。

 

もちろん最初からそうだったわけじゃない。

フィリピンのことば、

タガログ語」を勉強しなければならないと思った時、「絶対無理!」「絶対難しい!」と思っていた。

タガログ語」が得体の知れない化け物にでも感じていたからだろう。

「知らない」が、大きな壁になっていた。

「知らない」からものすごいことのように感じるし、自分にはできないと思ってしまう。

 だけど、知ってみると、

「知らない」と「実際」は随分違ったりもする。

 

「知らない」を「知りたい」に変えられたら、

毎日はもっと面白くなるのかもしれない。

 めんどくさいな、できないな、を、ワクワクに変換できるエネルギーをどう補給していくか。

そこが鍵になるのかもしれない。

 

「ババエロ いやーん」

女たらしのどうしようもない男を思い出したら、このことばを呟いてみてほしい。

 

きちんと、怒りの感情も込めて。

 

「バーバエロ、いやぁーん!!!」

 

世界には面白いことばがたくさんある。

面白がってみれば、難しいも笑いに変わる。

 

ーーパッポ パッポ パッポ パッポ

 

鳩時計が時を告げる。

随分と長居してしまった。

 

結局、オシャレなカフェにいながら、

ずっと頭の中はふざけ倒しいていた。

オシャレなところに身を置けば、

スタイリッシュなアイディアが沸くかと思ったら。

結局、どこにいてもわたしは変わらないのだ。

だったら、

わたし自身を面白がって生きるしかない。

 まだ「知らない」わたしを、もっと面白がってみようと思う。

 

絶望が落としたもの〜collateral beauty

映画

collateral beauty

コラテラレル ビューティ

 

生まれて初めて耳にしたそのことばに、

涙が止まらなかった。

3時間近くが経っていただろうか。

電車の中でも涙が溢れ、スマホの画面に目を落とすことができない。

ただひたすら泣きながら上を見上げ、

「春の金麦」の広告を読んでいた。

濃い青に、やわらかな桜色が映える。

 

言語化の力は、凄まじい。

そのことばの存在を知った瞬間、

見えなかったことが急に見えてくる。

 

collateral beauty

 

確かに、確かにそれはあったんだと気付く。

前からわかっていたような気はしていた。

でもどこかで受け入れようとはしなかった。

 

だけど。

 

スクリーンの中の彼女の台詞にハッとした。

collateral beauty

それは、そこにある。

確かに存在している。

 

だけど、ただそれだけなんだ。

 

ずっと思っていた。

そんなものいらない。

そんなものを手に入れるくらいなら、

死んでしまった人を返してほしい。

亡くなった人に会わせてほしい。

 

でも、それは違った。

 

collateral beauty

それと死とは引き換えにできない。

代わりに、なんてできない。

 

ただ、それはそこにあって、

その人は死んだ。

ただその事実があるだけなんだ。

 

若くして命を落とした大切な友人の家に、

わたし達はよく集まるようになった。

最初は、娘と同じ年のわたし達の姿さえ、

ご両親は見たくないんじゃないかと、戸惑った。

でも、あれからもうすぐ10年が経とうとしている。

最初は行く度に辛くて涙が止まらなかった。

だけど、そんな空気が変わったのは、

同級生の友人に赤ちゃんが生まれた時のこと。

新しい命が、死の苦しみや悲しみをすっぽりと丸く包んでくれた。

「あ〜、笑ったー♡」

「えー、何今の仕草ーー!!!」

部屋中に笑い声が響くようになった。

そうして時が経つにつれ、新しい命も随分増えた。

最近では託児所みたいに賑やかだ。

彼女がいないことで作られた、あたたかい空間が、そこにはある。

笑い声が響き、1人になって振り返ると、様々な気付きをくれる、そんな空間が。

 

collaterall beauty

 

あんなにも悲惨な死の側にも、

それはそっと置かれていった。

もしも彼女が帰ってくるなら、そこにいるみんなが喜んでそれを手離しただろう。

だけど、それは叶わない。

死は、死として存在している。

そこに、それもある。

ただ、それだけなんだ。

 

何も親しい人だけではない。

きちんと目を凝らしてみれば、

どんなつながりでも、そこにはそれがある。

 

数ヶ月前、突然入った訃報にわたしは戸惑いを隠せなかった。

決して親しかったわけではない。

同じ職場で、時々顔を合わせれば挨拶をする。

それくらいの付き合いだった。

それでも。

前途明るい青年が命を落としたという報せは、あまりに辛い。

どうか嘘であってほしいと願わずにはいられなかった。

 

彼とは一度だけお酒の席で話したことがある。

職場でも好かれていて華のあるタイプだったが、その席でも彼は好青年だった。

酔っ払って悪態つく同僚をうまく宥め、その場を和やかに保っていた。

 

彼はその時、

「実はやってみたい仕事がある」と話していた。

それはわたしの所属していた部署の仕事だった。

「だったら上に言ってみなよ」

「まずは伝えないことには、伝わらないよ」

その場にいる人がみんな彼を応援し、

彼も「そうですね」と深く頷いていた。

 

しばらくしてわたしは仕事を辞めた。

 

彼がその後、何か行動を起こしたのか、

その仕事をやりたいと願い続けていたのかもわからない。

亡くなった当時、彼は以前と同じ部署にいた。

 

collateral beauty

 

彼の死をきっかけに、わたしは自分の人生を考え直した。

わたしは本気で自分の仕事と向き合っているだろうか。

自分がやるべきことを、全力でやれているだろうか。

誰かが願った何かを、わたしは無駄にしていないだろうか。

人と人とが出会うことには、何か意味があるのだろうか。

 

collateral beauty

それは映画の中で

「幸せのオマケ」と訳されていた。

 

死の側に、その後に、必ずそこにある。

そっと残された気付き。

 

小さな娘を亡くした主人公は拒絶する。

「そんなものいらない」と。

 

でも、作品を見ていて思う。

それは何かと引き換えにすることも、

拒絶することもできない。

ただ、そこにあるだけなんだ。

そして、気付かない人は、気付かない。

虹がかかっていても、足元ばかり見ている人がいるように。

それは、ただそこにあって、それ以上の意味はない。

 

collateral beauty

それは、

「絶望が落としたぬくもり」

なんじゃないかと思う。

 

空気の中に蒸気が集まりすぎると雨になって落ちてくるように、

絶望が集まると、そこからぬくもりが落とされる。

 

絶望には、誰かへの愛情や、信頼、期待とか、そんなあたたかい感情が奥底に秘められている。

それがギュッと集まった瞬間、

収まりきれなくなった悲しみの中から、

奥に仕舞い込まれていたぬくもりが、ひとつ落ちてくる。

 

失って気付く大切なこと。

死が教える命の尊さ。

愛することの意味。

 

どんな死の側にも、

きっとそれは、そっと置かれている。

 

『COLLATERAL BEAUTY』

 

美しいことばや抽象的な概念の並ぶ世界観の中で、

大切な人を失った人の声が胸に刺さる。

 

「自分を取り戻したいんだ」

「無理よ。あなたは娘を亡くしたんだから」

 

大切な人を亡くしてしまった人は、

決してその悲しみを忘れ、乗り越えることはできない。

生きている限り、死と向き合い続ける。

 

 

「前を向こう。なんて、クソ喰らえ!!」

そう叫ぶ主人公を見ていると、

不思議と安心している自分がいる。

 

乗り越えなくていい。

乗り越えることなんて、できないから。

誰かにそう、はっきりと言ってもらいたかったのかもしれない。

 

生きている限り、死から逃げることはできない。

身近な人、大切な人、名前だけを知ってる人。

どんな人の死も、やっぱり悲しまずにはいられない。

 

それでも、死は絶望ではない。

collateral beauty

必ずそれはそこにある。

気付く事ができれば、

今日の自分を生きる事ができる。

 

原題『COLLATERAL BEAUTY』

邦題『素晴らしきかな、人生』

 

心の奥にしまいこんでしまった

死と向き合う時間、

それを味わう痛みを、思い出させてくれた。

「言語化」の力は、生きる力にもなる。

 

ことばにすることで、人は生きていく。

ことばにできれば、人は生きていける。

 

もうあんなに泣くのは嫌だけど、

誰かを失って辛い時、もう一度観たくなる作品だ。

 

逃げる者は、もう追わない。

朝目覚めると彼はもういなかった。

ついさっきまでそこにいた気配は微かに残っているのに。

脱け殻みたいな毛布の中に手を入れると、

少しだけまだ温かい気がする。

彼のにおいが、残っている気が。

でも、それは気のせいだ。

彼はもういない。

逃げたんだ。

それが事実だ。

 

彼は自然に現れ、気付けばいつもそばにいた。

慌ただしく過ごしていたわたしに、

「少しだけ休めばいいよ」と、

やさしく言ってくれた時が懐かしい。

 

だけど。

実際、彼が現れてからはもっと忙しくなった。

いつも通りのペースを保てず、

慌ただしい日が増えた。

 

それに。

彼がここに長く留まらないことはわかっていたんだ。

それでも、

「きっと大丈夫だよ」と自分に言い聞かせた。

 信じていれば奇跡が起こるかもしれないと、せめて思いたかったから。

 

今更悔いても仕方がない。

 ただ来るべき時が来ただけだ。

 

きっと次の人は、

ドラマティックにやってきて、

そしてまた劇的に去っていくのだろう。

 

それはどうすることもできず、

ただ受け入れるしかないのだ。

 

意を決し、カレンダーをめくる。

 

1月はいぬる、2月は逃げる、3月は去る

 

2月はあっという間に逃げていった。

跡形もなくただそこにいた気配だけを残して。

3月もきっと全速力で走り去るのだろう。

 ぼんやりしてたらすぐに4月がやってくる。

 

過ぎ去る時間が速いのは、

覚悟を決めて受け入れるしかない。

過ぎてしまうことにしがみつくのではなく、

今やるべきことに集中する。

 

さあさあ、月末が短かった分、

やることが盛りだくさんだ!

 

さよなら2月。また来年!

 

灰色の世界に必要なのは

映画

「……ざけんな、ばぁーろー」

 

春だなぁ。

缶チューハイを片手におじさん達が公園に吸い込まれていく。

 

冬の間、このおじさん達はどこに潜んでいたんだろうか。

春一番を合図にどこからともなく現れ、

見るもの全てに文句をつけながら、ふらふらとどこかへ消えていく。

 

休日の公園は、恋人達や家族連れで賑わっている。

 

ように見える。

 

でも、よくよく見渡してみると、

片手に缶チューハイはあちこちで見られるし、

池とスマホの画面とを

ただ交互に眺め続けている人も少なくない。

それに、池の水はよどんでいるし、なんだか臭う。

 

「何が都会のオアシスだ」

 

部屋の中にいたら日差しが暖かそうだったから外に出てきたのに、段々と視界が霞んでくる。

 

家に帰ったらあれをしなきゃ。

うわ、あの仕事まだ終わってなかったんだ。

週明けには、あれも片付けなくちゃ。

 

緑に囲まれているというのに、

段々と見える景色は灰色に変わってくる。

 

いつからだろうか、こんな風に変わってしまったのは。

いつまでだろうか、こんな生活が続くのは。

 

気付けば、見たくないものばかりを探し、

聞きたくないことばかりに耳をそばだてるようになる。

 

日常がつまらないのは仕方がない。

夢を叶えるには辛い日々を乗り越えなければいけない。

 

本当にそうだろうか。

 

白いワイシャツのボタンを上まで閉めて、

なんの個性もない黒のパンツを履き、

髪は邪魔にならないように後ろに束ねる。

 

「つまらないなぁ」

そりゃそうだ。

そんなつまらない格好をしていたら、

何をしててもつまらない。

 

ロイヤルブルーのスカートに着替えて、

真っ赤なトートバッグを肩から下げれば、

物語は動き出す。

 

お気に入りのリップを塗って、

チークで頬をふんわり彩れば、

それだけでなんだか口角が上がってくる。

 

気分が落ちていると、鮮やかな色を身につけることに、気がひけてくる。

鼻歌を歌ってはいけない気分になる。

 

色を消して、地味な暗い色に包まれることで、

前に進むことを拒もうとする。

 

でも、誰にそうしろと言われたわけじゃない。

 

灰色な世界を作り出し、

留まり続けているのは、

全部、自分自身だ。

 

そんな状態で、ふらふらと「自分」を探しに行ったって、見つかるわけがない。

 

好きな色を身につけ、

お気に入りの歌を口ずさめば、

見える景色はどんどん変わっていく。

 

一度や二度、似合わない色を身につけて恥ずかしい思いをしたからって、鮮やかな色が似合わないとは限らない。

いろんな色を試してみるからこそ、

好きな色、似合う色が見つかってくる。

 

「本当に」似合う色も、存在しない。

 

「違うかもしれない」という不安が、色を霞ませる。

その時その時で、今の自分が選ぶ色を信じたらいい。

年を重ねれば、似合う色も変わってくる。

同じ色に固執する必要だってないんだ。

 

見たことのない色には自然と心惹かれる。

自分には無理と諦める必要もないし、

似合わないのに無理して手を出す必要もない。

 

ただ、その色を見つめた時、思い出した時、

どんなメロディが聞こえてくるか。

耳をすませばわかるはずだ。

ウキウキするような曲なのか、

悲しく切ない旋律なのか。

正しいとか間違っているなんて、誰にも決められない。

メロディが聞こえれば、自然と心は反応する。

ただ素直になるだけだ。

 

大好きな色を身に纏い、

心弾む歌を口ずさんでいれば、

世界はダイナミックに動き出す。

 

たとえ暗闇に包まれても、

自分の色があれば、

決して闇に溶けて消えてしまうことはない。

 

世界が灰色に変わってきたら、

心弾むような色を身の回りに集め、

胸が踊る音楽を流しておく。

 

世界を変えるのは、

自分でしかない。

 

ある時、意を決して友人に聞いてみた。

「見えないって、どんな感覚なの?

ずっと、暗いの?」

彼はやさしく微笑んだ。

「暗くはないよ。

見えないけど、わかるから。

空は青いって、知ってるよ」

 

手話もわからないのに、聞いてみた。

「どうしてダンスができるの?

なんでわかるの?」

力強く動く手が教えてくれた。

「聞こえないけど、動きは見えるよ。

それに、ズンズン響くのは伝わるよ」

 

世界には色と音が溢れている。

 

例え見えなくても、聞こえなくても、

感じる時、伝わる時があるという。

 

だったら。

自ら見えないふり聞こえないふりをすることに、なんの意味があるのだろうか。

 

辛いことがある度に、

灰色の布をかぶって隠れ続けてきた。

 

そうすれば、誰かがきっと見つけてくれるから。

「大丈夫?」って、あったかい手を伸ばしてくれるから。

 

でも、そこには色も音もない。

そんな世界、つまらない。

 

前に進むには、

色も音も自分で選ぶしかない。

それはきっと楽しいはずだ。

いつでも好きな色と音楽に囲まれれば

自然と力が湧いてくる。

 

それでも自分だけではどうしようもないこともある。

そんな時のために、映画や音楽や物語がある。

 

色が伝わるように、

音が感じられるように、

思いを込めて創られる。

 

たったひとりに届けるために。

全てを注ぎ、創られる。

 

そんな誰かの強い思いに触れた瞬間、

鮮やかな景色が見えた時、

熱い音楽が奏でられた時、

きっと、心が動き出す。

 

映画『ラ・ラ・ランド』

 

人は、どんな瞬間も美しい。

人生は、どんなに切なくとも愛おしい。

 

この映画から色と音楽を消してしまったら、

なんともつまらない作品になるだろう。

 

自分のいる世界も同じだ。

色も音も自ら奪ってはつまらない。

 

もうすぐ暖かい春がやってくる。

探せば探すほど、

心弾む色が目に映る季節がやってくる。

電車の中だって、誰かに見られたって、そんなの脱がしちゃいなよ。

ある時から疑問を抱くようになった。

「どうして隠さなきゃいけないんだろう」

 

人に見られるから? 

恥ずかしいから? 

 

……何がだろう。

何を隠そうとしていたんだろう。

 

そう思い、覆い被せていたものを脱がせてみた。

あぁ、スッキリ。

わたしはこっちのほうが好きだ。

恥ずかしいことなんかあるもんか。

隠しているから恥ずかしくなるんだ。

 

電車の中でも、人前でも構わない。

誰にも迷惑なんてかけやしない。

わざわざダサくする必要なんてない。

無理に着飾る必要もない。

 

そのまんまが一番かっこいい。

そのまんまが一番好きだ。

 

やめた、やめた!

ある時から、

わたしは本をカバーで隠すことをやめた。

 

 

「カバーおかけしますか?」

本屋さんのレジで必ず聞かれるそのことば。

前は必ず「お願いします」と答えていた。

 

だって自分が何の本を読んでるか、人に見られたら恥ずかしい。

 

でもあるときふと疑問に思った。

 

「何が恥ずかしいんだろう」

 

表紙を見られるのが恥ずかしい?

 

たくさんの大人達が色んなアイディアを出し合って作った表紙なのに、

それを見せることが恥ずかしいだなんて。

 そんなわけがない。

むしろ「かっこいいでしょ?」と自慢したらいい。

 

タイトルが恥ずかしい? 

 

タイトルだって同じだ。

 

どうすれば手にとってもらえるか、

興味を持ってもらえるか、

考えに考え抜いたタイトルは、

どこに出したって恥ずかしくないはずだ。

 

それに本屋さんに行くと、タイトルを眺めているだけで、色んなヒントが浮かんでくる。

だとしたら、本屋さん以外でも、タイトルをあちこちで見る事ができたら、むしろ有難いんじゃないだろうか。

 

だけど。

うわ〜、あの人あんな本読んでる!
そう思われる事が、恥ずかしいように思っていた。

 

なーんで、そんなこと思ってたんだろう。

 

第一、もし本当に見られるのが恥ずかしいような本を読んでいるのなら、カバーをかけて隠したって、背後の人には丸見えじゃないか。

 

わざわざベージュのザラ紙にくるんで

「それは本です」

くらいにしかわからない見た目にされて。

 せっかくカッコよく作ってもらったのに、

「恥ずかしいからこれ着てなさい!」ってみーんなおんなし格好にさせられて。

本からしたら、そっちのほうが恥ずかしいかもしれない。

 

事実、

他人が読んでいる本は、気になる。

 

女子高生が夢中になってる小説は、何の話だろうか。

いかにも仕事ができそうなキャリアウーマンが眉間にしわ寄せて読んでいるその本には、何が書かれているんだろう。

ページを捲る仕草の美しい彼は、何に惹かれてその本を選んだのだろうか。

 

本屋さんに平積みされている一冊より、

目の前の人が読むその本に、

グイッと興味はそそられる。

 

だからこそ、

隠していたらもったいない!

 せっかくの面白い本は、もっとみんなに見せたらいい。

 

電車の中で、街の中で。

 

カバーなんて脱がしちゃえばいい。

 

そしたら、もっともっと本を読みたい人が増えるかもしれない。

気になる本に出会える可能性も高まるかもしれない。

 

本を介した出会いと縁が、

声を出さずにどんどん広がっていく。

 

そんな風景が日常になると思うと、なんだかワクワクしてくる。

 

偶然隣にいた人が同じ本を読んでたら。

 

「あ、一緒ですね」

 

照れながら微笑み合い、物語が始まるかもしれない。

 

そんなことを想像しながら、今朝は新たに小説を読み始めた。

まだ最初の30ページくらいなのに。

気付けば景色が滲んでいる。

 

油断していた。

書き出しでこんなに感情が込み上がってくるなんて。

 

涙が溢れないように、本から目を離し、少し上を見上げた。

 

するとなんとなく、視線を感じる。

あ。こんにちは。

 

目の前に座っていた同世代くらいのお姉さんが、わたしの表情と本の表紙とを見比べている。

 

「めっちゃ面白いですよ。

まだ30ページですけど」

 

無言でメッセージを送る。

 

良い本は、内容から得るだけではなく、

読んでるそばから物語が始まり出すんだ。

これはまた新しい発見だ!

いつか同じ本を読んでいるお姉さんと、電車の中で再会できたらおもしろいなー。

 

そんなことをニヤニヤ想像しながら、

わたしは明日もカバーをかけずに本を読む。

 

 

 本日は、お日柄もよく (徳間文庫)

 

本日は、お日柄もよく (徳間文庫)

 

 

 

誰か正直に教えてください。わたしは変なおじさんに見えるのでしょうか。

「は?! まただ……」

 

いつからだろうか。

大したことはないけれど答えが見つからず悩み続けていることがある。

悩みなんて言ったら笑われるかもしれないが、

本人はけっこう真剣に悩んでいる。

 

普通の人なら難なくできるソレが、

わたしは自然とできないのだ。

 

スーッと行って、スッで終わるはずなのに、

スーッと行って、……

あれ? どした? スッが来ない。

 

シーンってなんだ。

なんで、だめなんだ。

なんで、できないんだ。

 

わからない、答えがまったくわからない。

一つだけ考え得るのはそう。

 

もしかしたら、

わたしが変なおじさんに見えているのではないか、ということだ。

 

わたしの実年齢は32歳、女性。

見た目はそれより低く見られることが多く、

長い付き合いの友人に久しぶりに会うと、

「変わらないね(笑)」と、

必ず「かっこわらい」付きでしみじみと言われる。

 

仕事では、社会人になってそろそろ10年経つと言うのに、

「若いのにしっかりしているね」と言われることが多い。

「いえ、もう32ですから」と答えると、

確実に疑いの目を向けられる。

なんなら、

……騙したな、くらいの目で見てくる人もいる。

 

 

 

他人の目に自分がどう映っているのか、イマイチわからない。

ただどうやら、年齢より若く見られるらしい。

 

そう思っていた。

 

 

でもやっぱりあの場面になると、

どうもまたあの疑問がわいてくる。

 

わたしは、変なおじさんに見えているのではないだろうか。

 

今日もそんな場面があった。

仕事で展示会に行き、休憩中に「他のブースも見ておいで」と声をかけられ、

会場内をウロウロしていた時のことだった。

 

美味しいにおいに誘われて歩いていくと、

餃子や生ハムやうどんなどの試食が配られていた。

 

うーん、でもお腹いっぱいだしなと思っていると……

 

ハッ! 

 

アイスクリーム!!!

アイスクリームの試食が配られている!!!!!

欲しい! 食べたい!! アイスクリーム!!!!! 

 

ウキウキしながら鼻歌交じりで列の後ろに並ぶ。

 

小さなコーンにちょっこり乗ったアイスクリーム。

前の人たちが、スーッと近付きスッと受け取り去っていく。

ちょっと先で立ち止まり、嬉しそうにアイスを食べている。

 

スーッ、スッ。

スーッ、スッ。

 

どんどん近づいてくる。

 

スーッ、スッ。

スーッ、スッ。

 

スーッ ……

 

ん? 

 

……

 

はっ! まただ! 

なんで、なんで?! 

 

なんでよりによって、アイスクリームで!!!

 

わたしの悩みはそう。

なぜか試食をもらえないことだ。

 

さっきまでの、スーッと行って、スッと受け取る、

その自然な流れが突然止まってしまう。

 

物が無くなったり、前のお客さんが話を始めたり、

店員さんがあっちを向き始めたり。

 

なんでだ、なんでだ。

なんでわたしは自然に試食をもらうことができないんだ?? 

 

何がおかしいんだ? 何がいけないんだ? 

「買わないけどタダならください」感が出すぎてるのか? 

もしくは「別にほしくないけど」オーラを

出してると思われているのか? 

 

はたまた。

やっぱり。

やっぱり、それしかないよね。

 

わたしは、変なおじさんに見えているのだろうか。

 

みんなが自然に受け取るものをもらえないって、

志村けんの変なおじさんか、ミスタービーンくらいじゃないか。

どっちにしたって変なおじさんだ。

 

みんながスーッと行って、スッともらうから

自分もスーッと行ったのに、……シーン

 

おかしいなと首をかしげ、

キョロキョロしたり、

身震いしたり、

店員のお姉さんをこちょがしてみたり、

思いっきりクシャミをしてみたり。

 

あらゆる策を講じるのにもらえない。

 

それで、

あそこならもらえそう! と、

別の列に並ぶと、銀のタライが降ってきたり、鉄の棒にぶつかったりするオチじゃないか。

 

変なおじさんじゃないのになぁ。

あー、食べたかったな、あの北海道産ミルクのアイス。

そもそも機械を売ってるから、あのアイス自体は売ってなくて試食じゃなきゃ食べられないのに。

 

なんで、なんでわたしはもらえないのかなー。

うーむ、わからない。

自分じゃ自分が見えないからわからない。

 

誰か、正直に教えてほしい。

わたしは変なおじさんに見えているんだろうか。

 

そんなことを考えていた帰り道。

渋谷駅の埼京線に向かう動く歩道で、

反対側から若い女性が歩いてきた。

 

帰宅ラッシュの渋谷駅。

歩きながら

まん丸の今川焼にかじりつく、

ポッチャリしたピンクのコートの女性。

 

なんか気持ちいいくらいにしあわせそうで、

嬉しそうで。

もしもわたしのポッケに今川焼が入ってたら

あげたくなっちゃうくらい。

 

人混みに紛れたあのホクホクの笑顔を見ていたら、

試食がもらえるもらえないなんて、

なんだかどうでもよくなってきた。

 

何をわたしは、ああでもないこうでもないと考えていたんだ。

自分を変なおじさんにはめこんで、一体なんの答えがほしかったというのだ。

 期待する反応が起きないからって、アタフタして一人考え込んで。

何をしたかったんだろうか。

 

最寄駅に着く頃には、もう変なおじさんの陰は、わたしの頭の中からすっかり消えていた。

改札を抜けて、まっすぐにコンビニへと向かう。

 

ふふふ。なんのアイスを買って帰ろうかな。

ふと見上げたガラスの窓には、今川焼の彼女のように、にんまり笑うわたしが映っていた。