魚が、魚らしく泳げることばを、集めていこうと、思います。
「わかるなぁ」
自分のことを本当にわかってくれる友人の「わかるなぁ」は、どうしてこうも、心に染みるんだろう。
あぁ、よかった、これからも生きていられる。
そうやって安心する。
なんだか、深い深い海の底から、ぷはぁっと顔を出して、ようやく息ができる気分だ。
いつからだろう。
気づくと、息ができなくなっていた。
自分では出したことのないスピードで走り出して、
気づけば、スッテーンと派手に転んでいた。
どこかで、立ち上がることはできたんだろうか。
むしろ、転んで地面に付いている意識すら、なかったのかもしれない。
気づくと、なんだか、もう疲れていた。
疲れて、起き上がることすらままならなかった。
世界はゆっくりとぐるぐる回って、息ができなくて、
そして、友達も家族も、遠く感じた。
意識的に遠ざけていたからだろう。
どうやって近づいたらいいかが、わからなくなっていた。
だから。
自分の気持ちを隠して、水の中に潜るのをやめてみた。
水の中は、思いし、苦しい。
だからこそ、体を鍛えることは、できる。
でも、たとえ、誰かにぶつかられても、沈められても、外からは見えない。
自分の意思で沈んで行ったとしても、気づけば、息が苦しくなって、どうしたらいいか、わからなくなる。
何も、見えなくなる。
小さい時、3歳か4歳くらいだろうか。
川で溺れたことがある。
しかも、底の浅い川だ。
兄は、「あの川で溺れる方が難しい」と大きくなってから笑っていた。
そう思う。
いくら運動神経が悪いからって、何も、
立てば足がつくようなところで、むしろ、腰あたりまでしか水のないところで、
溺れる方が、却って難しい。
だけど、あの時は、本当に溺れたんだ。
足を滑らせたのか何かはわからない。
気づいた時には、水の中にいて、
白い世界に丸がいっぱいあって、
「苦しい」と「怖い」でいっぱいだった。
ぷはぁって飛び出した時、なんとなく体に手をかけられて、
それで、お父さんの顔があった時、
「あぁ、よかった」ってすごく安心した覚えがある。
死ぬかと思った。一人じゃダメだった。
「助けられる」というのを実感した時だった。
自分は大丈夫って、思っていると。
これくらいなんてんことないよ、って思っていると。
安心しきっていると。
足元をすくわれることがある。
「危ない!」って意識がなければないほど、
足を滑らせた感覚がなければないほど、
気づけばあっという間に、水の底に、沈んでしまう。
だけど。
きっと大丈夫だ。
誰かが、助けてくれる。
きっと、手を伸ばしてくれる。
他の人から見たら、バカみたいな転び方かもしれない。
そんなとこボーッと寝転んでないで、サッサと走れよ、って、思っているんだろう。
どんなに視界が悪くなろうと、頭が働かなかろうと、息ができなかろうと。
どうしてか、そういう人の本音は伝わってくる。
水の中にいるときくらい、他人の気持ちに鈍感になれたらいいのに。
だから、全部を諦める。
もがけばもがくほど、沈んでいく。
全部を手放して力を抜いたら、きっと、どこかには浮いていけるはずだ。
なにも、運動神経が悪いから、抜けてるからって、どこでも溺れてしまうわけじゃない。
泳ぎが得意な魚だって、淡水魚が海へ出たら、あっという間に死んでしまう。
海水魚が川へ登ったら、苦しくなって死んでしまう。
住むべきところ、いるべきところを見誤れば、あっという間に苦しくなってしまう。
海に暮らす魚は、海が最高なのになー、と思い、
川に暮らす魚は、川は暮らしやすいのになーって思う。
魚それぞれだ。
みんなあちこち旅をして、ようやく暮らすところをみつけてる。
もしも苦しいなら、息ができないなら、
泳ぎやすいところへ向かえばいい。
スイスイいきていける川や海を探せばいい。
「わかるなぁ」
自分のことを本当に理解してくれる友人のその言葉は、何より救いになる。
わたしがサボってる時は「何やってんの!」って、ちゃんと叱ってくれる。
わたしが間違っていれば、ひとつずつ説明してくれる。
そんな友達の「わかるなぁ」は、おばあちゃんちで飲んだ緑茶みたいに、あったかく、こころに、染み渡る。
ことばって、こんなにやさしいんだなぁ、と、なんだか、泣きたくなる。
そうだ。
ことばは、やさしいんだ。
人を傷つけるためじゃない。
本当はきっと、人を励まし、癒し、あっためるためにあるんだ。
誰かを攻撃するのではなく、
誰かをそっと抱きしめるためのことば。
そんなことばを、こころの中に集めていこう。
そしたらきっと。
水の中に沈んでしまった誰かに、手を伸ばすことができる。
弱ってる誰かを、スイスイ泳がせてくれる、
元いた場所へと、連れてってくれる、ことば。
そんな、そんなことばに触れて、囲まれて、自分の中にためていこう。
いつかそんなことばを、自分のことばにできるように。