大人になるにつれ、幼き頃の母の教えが身に染みる
「心の中では四六時中ブチ切れていますよ」
「ええっ?!」
謙遜したつもりが、度が過ぎていてドン引かれることがある。
わたしはどうも外面が良いようで、出会ったばかりの人には「怒ることなさそうだよね」と言われることが多い。
そんなことはない。
満員電車でつま先踏まれれば、
全力で振った炭酸を渡してやろうかと思うし、
店員さんに雑にお釣りを渡されれば、
節分の豆まきみたいに投げ返してやろうかと思う。
日常の些細なことでさえ、
イライラしてしまうことはたくさんある。
それでも、わたしが「怒らなそう」と思われることには、思い当たる節もある。
それは恐らく、幼き頃の母の教えが、いまだに根底にあるからだと思う。
「腹の立つやつなんかと、同じ土俵に立つな」
こどもの頃、何か理不尽なことに怒っていると、母はよくそう言っていた。
「世の中理不尽なこともあるし、くだらないやつもいる。だけど、いちいち腹を立てて同じ土俵に立ったら負けだよ。自分のレベルがさがっちゃうよ」
当時まだ幼かったわたしは、歯を食いしばり、涙も鼻水も垂れ流しながら、腹の立つ奴らを頭に浮かべ、
「おなじ、どひょうに、たちたくない」と、
心の中で繰り返していた。
だから、わたしは腹が立つときは黙る。
相手はなんでそんなことをしているんだろう。
どういう意味で言っているんだろう。
わたしはどうするべきだろう。
どうすれば、同じ土俵に立たず、闘わず、解決することができるだろうか。
たとえ腹の中は煮えくり返っていても、
それを出さない自分との闘いを続ける。
それもうまくいきそうにないときは、
もう、笑ってしまうしかない。
腹の立つことがあったら、
腹の中でぐるぐる巡ってるマグマみたいな感情を、「あははは」と言いながら、口から吐き出す。
溜めてしまったらきっと、怒りに食いつぶされてしまう。
だから、笑う。
自虐でもふざけても、なんでもいい。
ただ、笑う。
ステージを変えるんだ。
そうすれば、何が本論だったかわからなくなる。
それでいい。
わかってしまえば腹が立つ。
笑いのレベルは低くていい。
滑ってもいい。
ただ、「あははは」って声を出すタイミングを作るんだ。
そうすれば、ぐにゃんと世界が歪んで、足元が変わる。
気づけば、腹の立つ人と一緒にいた土俵から飛び出して、トランポリンでふわふわ飛んで、別のところに移動できる。
腹が立ったことも、忘れることができる。
さらに母は、こうとも言っていた。
「それでも腹が立つなら、おならかけてやれ。それくらいの気持ちで接しなさい」
え?! お、おならですか?!
そ、それは教育としてどうなんでしょうか?(笑)
でも、これは不思議な魔法のことばだ。
ほんとに許さないから、おならかけてやろう! って思うと、案外笑けてきて
「まぁ、そこまででもないか」という気持ちになる。
だって、その人にだって、家族がいる。
夢がある。
きっと、好きな本とか座右の銘もある。
今も心の中で忘れられない初恋の人とかがいるはずなんだ。
そんな人に、おならをかけるのは、さすがに、人として忍びない。
その人は、それに値するだけのことをしたのだろうか?
そう、自分に問うてみる。
すると、
「いや、そこまでじゃない。そこまでは腹が立ってない。うん、ならもういいや」
と、スーッと怒りが消えていく。
あまり大きな声でおススメはできないが、わたしにとっては、魔法のことばだ。
そんな幼い頃の母の教えは、
案外30過ぎた今、胸に響くものが多い。
大人になるにつれ、人間環境や作業がふくざつになっていくだけで、きっと、こころは、そんなに変わらないんじゃないだろうか。
5歳とかそのくらいのこどもに、
母がなんて伝えたらいいんだろうと、考えに考え抜いて発したことば。
わかりやすくシンプルな教え。
それは今だから、大人になった今だからこそ、きっと、心に響いてくるのかもしれない。