本日はNew Year's Eve

30代OLが「書き手」になる夢を叶えるドキュメンタリー

天才が天才たらしめる軌跡を映し出したドキュメンタリー〜25年の時を経て甦るため息

ーー痛い

 

彼女が口を開いた瞬間、胸の奥をギュッと掴まれた。

 

やわらかく力強い旋律を奏でる彼女の吐息。

スーッと、記憶の奥に入り込む。

 

この胸の痛みは、いつの痛みなんだろうか。

ギュッと掴まれて、一瞬チクっとして、

じわっと、あったかくなる。

 

これは現実ではない。

記憶だ。

頭ではわかっているのに。

心が、彼女の作り出す世界から抜け出そうとしない。

 

彼女が口を開く度。

そのメロディに胸が苦しくなる。

奥の奥に仕舞い込んだあの日の記憶を絞り出すかのように、キューッと、痛くなる。

 

あの日。

その指先に初めて触れた、あの日のことだろうか。

わざとゆっくり歩くわたしを、じっと待っていてくれた、あの日のことだろうか。

目の前にいるのに、後ろを向いてしまったその背中に触れることができなかった、あの日のことだろうか。

 

これは、記憶なのに。

気持ちじゃなくて、記憶なのに。

 

どうして彼女が口を開くだけで、こんなにも体が震える程に甦ってくるのだろう。

どうしてその吐息には、そんなにも命が宿っているのだろう。

 

エンドロールが流れ、ゆっくりと会場が明るくなる。

 

確かなことは、何も思い出せない。

ただ。

 

あの日。

 

その日は、確かにあった。

誰かを想った過去があった。

そのことだけを、全身が記憶していた。

 

ーー痛い

 

彼女の歌う『中央線』は、

あんなにもやさしく記憶を紡いでくれるのに。

現実の金曜の夜の中央線は、

ただの現実でしかない。

残業に疲れて眉間に皺を寄せる人と、

早くから酒を煽って臭気を放つ人達が、

居場所を確保するために、押し合っている。

 

それでも。

 

彼女の歌声は、そんな現実にも救いを与えてくれる。

 

過去にはあった。

記憶の中には、確かに残っていた。

胸が痛くなるほど、恋い焦がれた日。

どこまでも青い海の向こうを追いかけて、

きっとその向こうまで行けると信じた日。

ばかみたいに、前だけを見ていた日々。

 

ただ、彼がいて、私がいた。

 

流れてしまう時間を、

変わってしまう人の心を、

向き合いたくない残酷な現実を。

 

彼女はそっと拾い出し、旋律に閉じ込める。

やわらかな吐息で奏でるそのメロディは、

あの日があったことを思い出させてくれる。

 

ーー走り出せ、中央線

 

"ピアノが愛した女"矢野顕子が、

唇を噛み、拳に怒りを込め、天井を仰ぎ、

何度も繰り返し触れようとした、完璧な一瞬。

 

出来る確信はある、ただ、技術が追いつかない。

指が……

あぁっ!

大体、長いんだよこの曲……

 

もう一回やります。

one, two, three

 

私は、私を信じてる。

 

小さな暗い箱の中、

画面いっぱいに映し出されたモノクロの表情。

記憶を鮮明に甦らせる音楽。

 

『SUPER FOLKSONG ピアノが愛した女。』

92年に発表された矢野顕子のアルバムの制作現場を映し出したドキュメンタリー。

 

 天才なんて、この世に本当にいるのだろうか。
確かに彼女は天才と称すべき存在だが、
頭を抱え、ため息をつき、それでも! と、何度も音楽と向き合うその姿は、
天才という一言で、片付けることはできない。

頭の中に描き出された完璧を、
形にするために追求し続けた結果が、

そこには映し出されていた。

 

I made it !

 

ただまっすぐにひたむきな熱い想いが、

理想の姿を現実にする。

それを成し遂げた人は、やっぱり天才と呼ばれるのだろう。

例えそれが、意地と努力の軌跡だったとしても。

 

彼女が引き出した記憶を、

私はまたギュッと心の奥の奥に閉じ込める。

 

もう、痛くない。

音楽が終われば、記憶は過去に消えていく。

そもそも、いつの何の記憶だったのかさえ、

よくわからない。

ただ、彼女の創り出す世界観に、没頭していただけかもしれない。

 

わたしは。

自分のことばで、自分の世界を創るんだ。

たとえ特別なものがなくたって。

信頼と執念で創り出せる世界がきっとある。

ことばで照らし出せる世界が、きっとある。

絶望をやさしく包むことばが、必ずある。

 

わたしも、わたしを信じるんだ。

頭の中に描いたこの理想を、

確実に表現できるとただ信じて。

自分の人生を、新しい道を、

自分のことばで描き、走り出す